非日常も日常も、同じ一日。
ニュースはいつも悲観的なこと、刺激的なことを話題にする。
なぜなら楽観的なことや日常は誰も気にしないからだ。
当たり前のように過ぎていく日常は誰にとっても当たり前に映る。長い長い歴史の中でも、残っているのは象徴的なできごとばかり。
そりゃそうだ。平凡な1日を記録したところで、誰も見向きもしない。
でも、残っていないとわけではない。
詩人や画家といった芸術家は、日常の中でふと特別に感じた瞬間を自分たちの表現力で形として残している。
だけどやっぱりそういった美しいものよりも、戦争や事件のような刺激的なことの方が人間の記憶に残りやすい。それはいつの時代でも同じ。
今も世界のどこかでは戦争が起きていて、ぼくたちの住んでいる日本は今も平和。
それもいつまでも続くという保証はどこにもないけれど、だからと言って今日という平凡な1日には意味がないなんてことは決してない。
そんな1日だろうと同じ24時間だし、どこかの誰かにとっては大事な1日だ。
誕生日の人もいる。結婚記念日の人もいる。今この瞬間に生まれた子だっているはずだ。そういう人たちにとっては今日は象徴的な1日のはず。
自分の知らないところでは、大変なことが起きている。ニュースに流れることがすべてではない。ニュースが取り扱う内容は、この世界でみんなが注目するようなことだけ。
本当はそれだけじゃない。どこかの誰かにとっては象徴的で、自分自身にとっては何も変わらない日常なのかもしれない。
だけど、それもみんな同じ1日。
今、自分に与えられれた1日は日常であるけれども、当たり前じゃない。
世界を憂うこともいい。
だけどぼくはポンコツだから自分の人生を懸命に生きること、自分の家族と生きていくことを考えるだけでも精一杯だ。自分、そして家族のために、今こそぼくはこの日常に大いに感謝しなくちゃいけない。
ぼくは日常を懸命に生き抜くことしかできない。
やれることをやっていくしか脳がない。残念なことに、それがぼくの現実だ。
悲観に明け暮れても、人生の時間は止まっちゃくれない。
やれることをやり、今を生きる。
それが、ぼく自身にできる精一杯。
自分がやるべきことをやって、やってみたいことにチャレンジする。
そういう日常を積み重ねることによって、自分の記憶に残る日を1日でも多く作っていきたい。
自分という生きる歴史を振り返った時、少しでも非日常のような象徴的な日が思い出せるようになりたいな。
じゃあ、またね。
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