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「とりえあえずみんなと同じ」の罪

諸外国から来られてコンビニ店員のアルバイトをしていらっしゃる方を見ていると、みんなしっかりとお客さんの日本語を理解されていて、しかもとても機転が効く対応をしてくださったりして、尊敬しています。

今日も職場近くのコンビニでコーヒーをいただきました。ありがとうございます。

こんにちは。日本にこもりっきりのぴこつです。

どんな事情があって日本に来られているかはわからないけれど、それぞれの方にも家庭があり、しっかりとお仕事をなさっているというのは本当にスゴイことだと思う。全然知らない言語をちゃんと勉強して、日本人と会話するというのは勇気が要るだろうし、きっとすごく努力なさったんだろうなと思う。

日本に居るぼくらは、外国の方が日本で仕事を普通にしていることを当たり前のように見てしまっていることもあるけれど、自分が外国に出て働くことを思ったらめちゃくちゃ覚悟がいるんじゃないかと思うんだよね。


少し前にnoteで中学一年生のぼくの娘の進路のことにちょっとだけ触れた。いつだったかは忘れたけど。

「この先の娘の未来について考え出している」ということまでは書いていたはずだけど、もう少し自分の中で整理しておきたい。

考えながら書いてみようと思うので、こどもや教育のことについていっしょに考えてみてね。

「高校に通う」は当たり前の進路?

中学になると、進路相談の時期にはほぼ全員が高校進学について考える。きっと友達同士の間でも「どこの高校に行く?」という会話もなされるんだろうね。

そもそも「どの高校に行く?」というのは高校に行くことを前提としてしゃべっているわけなんだけど、高校ってやっぱり当たり前なのかな。

ぼく自身も高校には通った。地元にあった工業高校の機械科だ。でも、ぼくが機械や自動車が好きだったかと問われるとそんなことはない。

本当は当時流行り出していたパソコンを習うために「情報技術科」に行きたかった。でも、中学の担任から「お前の成績じゃ無理だ」と言われて仕方なくレベルを下げて機械科にした。妥協したわけだ。

ところが、フタを開けてみたら行きたかった情報技術科は受験定員割れ。受験さえしていれば自動的に入れたはずだったのだ。なんのこっちゃ。

ぼくの場合は「パソコンを習いたい」という希望があったものの、結局は妥協してしまって「じゃあ仕方ないから機械科に行っとくか」となったわけだけど、それもやっぱり高校に行くことが前提にあったからそうなったんだと思う。


ぼくが高校に通っていたのは今から20年以上前になるけれど、現代では社会の構造も大きく変わってる。
確かに今でも高校や大学に行っていれば「とりあえずは」就職できるのかもしれない。

でもね、この「とりあえず」って・・・要るのかな?

社会に出てどこかに就職するために、高校や大学に通うのは当たり前だった。日本も資本主義にはなっているものの、それでも社会保障の面では会社員が優遇されている構造は変わらない。フリーランス(個人事業主)のぼくもそれはよく理解しているつもり。

ただ、現代社会で会社に就職することが絶対に必要なのか?

というと、そんなことはないと思うんだ。小学生のなりたい職業でお馴染みになった「ユーチューバー」も立派な仕事。それはぼくら「会社員が当たり前」世代にとってはただ知らないというだけで、それを「仕事と認めれらない」というのは自分が無知であることを晒しているようなもの。

現代には現代の生き方があるはずで、そのために「進学」が当たり前なのかどうかはもう一回ちゃんと考えた方がいいのかもしれない。

学校という狭い仕組みの中での教育

日本には義務教育がある。小中学校のことだ。この間の教育については、子供が通っているところを見ていてもぼくらが通っていた頃とそんなに大差はない。

ぼくらはこれを普通だと見てしまっているかもしれないけどれど、本当は異常事態だよね?

だって、社会は成長しているんだよ。

いかに日本社会が停滞しているとは言っても、経済は徐々に発展しているし、その証拠にパソコンやスマホが当たり前のように普及している。
ぼくらが子供の頃には考えられないような進化を遂げた。

それなのに、未来を担っていく子供たちがぼくらの時代と同じような教育を受けているなんて、異常極まりないと思うんだ。

鉛筆に消しゴム。黒板だよ?

いまだに手書きで字の読み書きを教える上に、「止め」「ハネ」など将来は全く気にもしないし役に立たないことに何時間もかけて教える。
こんな無駄な時間を、貴重な子供時代に受けて過ごしているなんて、もはや拷問だとぼくは思う。

そんな時間があったら教育系ユーチューバーの動画を見ている方がよっぽど有意義だ。

そしてもう一つは「最低限みんなと同じようにできるようにしましょう」という姿勢。

これには子供たちひとりひとりの未来にどれだけの意味があるんだろう?

そんなにみんな同じことができないとダメなのかな?

今の社会って、できないことを補完してくれる仕組みなんていくらでもあると思うんだ。

たとえば英語ができなくたってGoogle先生が翻訳してくれるし、計算だってそう。もしかしたら四則計算くらいはできていたっていいのかもしれないけど、それ以上は社会を生きる上でまったく困ることはない。

現にぼくは英語もしゃべれなければ因数分解もできやしない。

だけどちゃんと生きている。職業はシステムエンジニア。ポンコツだけどね。

やりたいことを実現するための進路

何か特定の職種を目指している子たちには高校や大学といった進路は必要な場合があるかもしれない。

医師とか、パイロットとか、会計士とか?
学校に通ったり資格が必要な士業などでは「大学」のような場所は最適なのかもね。あとは「勉強がめちゃめちゃ好き」という子にもすごく向いていると思う。

ぼくの娘はというと、基本的には勉強が得意じゃない。数学だけは他の教科よりも少しだけ得意ということはあるけれど、それにしたって勉強ができる子たちからすると全然大したことはないレベル。

成績はともかく、まず学校の勉強にそんなに興味がない。

それはそれでぼくはいいと思ってる。
その代わりに娘は絵が得意だし、ダンススクールも好きで通っている。

学校でも友達から「絵が上手いね!」と評判らしい。

そんな娘をぼくは誇りに思っている。

娘は、学校の勉強はそんなにできないけれど、イラストを描く勉強はすごくよく頑張っている。インターネットでいろんなことを調べては自分のスキルアップにつなげているし、成人マンガを描いている妻のnikoさんにもアドバイスをもらったりもしている。あ、さすがに描いた成人マンガは見せてないけどね(笑)

そういう風に自分が興味を持ったことに対して自分の意志で学習していくことにこそ意義があるんだとぼくは思ってる。

それを伸ばしていくために高校や大学といった教育が本当に必要なのか、ぼくは最近疑問を感じるようになった。

交友関係は学校でなくてもできる

「青春を味わう」とか「友達を作る」とか、学校生活に欠かせないようなことを理由に学校に通う子もいると思う。

ただし、それについてもぼくは疑問。

ネット社会だって交友関係はできる。なんなら希望刺すればその人たちとリアルで会うことだって可能。会わないにしても、オンライン上で顔を合わせることもできるでしょ?

それも、そういうコミュニティをよく知らないぼくらの世代では「危険だ」と思ってしまうことってあるよね。

でも本当にそうなのかな?

逆にリアルだったら危険じゃないのか?

ニュースでもたびたび出てくるよね。小中学生が友達を刺してしまったとか、学校に変な人が乱入してきて暴れたとか。

これが「滅多にない」というのは十分わかっている。それだったらネット社会のコミュニティだってそう。危険なところさえ避ければ滅多にトラブルなんて起きない。逆に「リアル社会は安全だ」と無警戒になってしまうから何か起きた時にパニックになってしまう。

もちろん、そんなことは起きてはならないことだけど、実際に自分の身にも起こることがあるんだっていうことは覚悟はしておかなきゃいけないと思うんだ。


交友関係という観点で見ると、ネット社会の方が見つけやすい。なぜなら自分が好きなことと同じ趣味を持った人なんていくらでも探せるから。
交友関係を学校でなきゃ築けないなんていうのは何十年も前の話。それだってぼくらの価値観では「おし量れない」ことなんだと思う。

自由とは責任を持つということ

もしも、学校という枠組みから外れて自分で生きていくという選択をしたとする。

つまり、自由を手に入れるということ。

自由だからこそ、自分の人生は全部自分の責任になる。

学校に通っていれば、その時間は拘束される。中身の教育がどうであろうと、学校に時間を預けているというわけ。

高校や大学はお金を払って自分の時間を捧げているから、ある意味ではその間の自分の人生は学校の責任にできてしまう。

だから、何かトラブルが起きたりすると学校を責めることができるんだよね。

でも、それがその人のためにいいかどうかは別の問題。勉強がめちゃくちゃ好きで通っている子はいい。だけど「周りの子が言っているから」という理由だけで学校に行き続けることが本当にその子のためになるんだろうか?

仕方なく通っているこの未来に何がある?

みんなと同じように学校にいくことにどれだけの意味がある?

好きでもない学校の勉強をがんばって、テストでは「それなりの点数」を取って、「それなりの大学」に進学して、「それなりの会社」に就職する。


果たしてそんな時間とお金の使い方が本当にその子の人生のためになるのかな?


ぼくにはよくわからない。ぼく自身も「それなりの高校」に通った身で、「それなりの会社」に就職したみだ。

その経験が必要だったかと言われたら、ぼくは「要らなかった」と思う。

それならば、子供に取って貴重な貴重な数年間という時間を思いっきり好きなことに費やして、どうやって生きていくかを真剣に学習してくことの方がよっぽど大事だと思うんだ。

「高校や大学に通うことがダメだ」と言っているんじゃない。

ぼくは何も考えずに「とりあえず行っておけ」なんて無責任なことだけは娘には言いたくない。
学校にいくのであればそれだけの意思と目的を持って行ってほしいと思うし、中途半端な答えしか出ないなら行く意味はないかなと思ってる。

自分で決めるという覚悟

ぼくは娘が幼少期の頃からずっと「どんなことでも最後は自分で決めな」と言い続けてきた。
父親であるぼくの言うことだって、学校の先生が言うことだって、所詮は他人の「意見」に過ぎない。

何が正しいかは自分の中にしかないから、誰に何を言われようと、最後の最後は自分で決められる子になってほしいというのがぼくの娘に対する願い。

習い事にしたって、やるのもやめるのも本人に任せてきた。
そうすると、これまでの娘は自分の中で「ここまでやったらやめる」と責任を持ってやり遂げた上でやめることが多い。

ぼくはそんな娘を尊敬しているし、きっと将来も自分のことは自分で決めて、ぼくには想像もつかないくらいに大きく羽ばたいてくれると思ってる。

何を好きになって、何に打ち込んでいくのかはわからないけど、ぼくは彼女の意思をどこまでも尊重してあげられる親でいたい。ぼくや妻のnikoさんの手から離れていくことも大いに歓迎するし、狭い視野のぼくらの元にいてはいけないとも思ってる。

まだ本格的に進路を決める段階にはなっていないけれど、娘はこの前インターネットで「定時制高校」のことを調べてぼくに提案してきた。
すごくいい視点だなと思った。もちろんそれにはお金のこととか、他にも考えなくちゃいけないことがたくさん出てくるとは思う。

まだ他にも行きたい方向が出てきたり、変わることだってあると思うけど、娘が希望することならどんなことも実現できるように一緒に考えて行きたいな。


娘のこととなると、ついつい熱くなってどこまでも書き続けてしまう。


ここまで付き合わせてしまったあなたには謝らなくちゃいけないね。

ごめんなさい!そして読んでくれてありがとう!!


じゃあ、またね。

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