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質問です。ぼくの文章、つまんなくない?

ぼくの文章、つまんなくない??


タイトルを何していいかわからず、本文の出だしと同じことを書いてしまった。
念のためにお伝えしておくと、本文が最初で、タイトルが後。
そこのところよろしくお願いします。

みなさんこんにちは。「つまんねぇ文章アーティスト」のぴこつです。

最近、自分が書いているこのnoteの文章に自信が持てなくなってきた。
いや、語弊があるな。自信なんてものはそもそも持ち合わせちゃいなかった。

ただ、文章そのものは別に気にしちゃいないんだけど、納得のいく文章だと読み返してみて「読みやすい」とか「ちょっと引き込まれる」とかなんかそういうの、ありません?

ぼくは普段から分析とか解析とか推察とか推理とかっていう「論理的思考」的な何かをすることがメチャクチャ苦手なので、「どんな文章が人を引き込めるか?」っていうのも全然わからない。

だけど、自分が書いた記事を読んでなんとなく「意外とよく書けてるな」とか「割とオモロいこと言ってんじゃん」とか思うこともある。

恥ずかしい話だけど、ぼくは自分が書いた記事のほとんどを覚えちゃいません。

読み返してみると「あぁこんなこと書いたな」って思い出しはするんだけど、昨日書いた記事ですら何だったか思い出せないくらいに壊滅的な記憶力の持ち主なので、自分で書いた記事を読んでも割と新鮮な気分で読みふけってしまうこともある。

ところで「壊滅的な記憶力の持ち主」って日本語あってますか?記憶力が「壊滅的」なら、それを「持っている」というのも矛盾してる気がする。
それはもはや「記憶力じゃなくね?」という話。

こういうくだらないことに文字数を費やしている時は自分的にはまぁまぁいけている日。

ただ、根が真面目な性格なゆえ、真面目な記事を書き出すと途端につまんねぇ文章をひたすらに書いてしまうという悪癖が出る。悪癖って「あくへき」って読むんですね。今のいままで「わるぐせ」だと思ってた。
今も「わるぐせ」とタイプしてボクのMacの文字変換時に出てくる辞書で初めて知りました。

こういうくだらないことに文字数を費やしている時はかなり調子に乗り出してしまっている日。いわゆる「暴走」だ。


ぼくが書いた文章は、ぼくが思っているよりもつまんねぇことが多い。書いている時は何も考えずにひたすら書いていることが多いので、面白いか面白くないかなどはあまり気にしてもいない。
ただ、書きながらも自分が読んでみて読みにくい文章になっていないかは自然と気にしているらしい。

タイプしながら頭の中で朗読している感じで、そうすると自分が「書く」と同時に「読んで」いる状態になって、おかしな表現や読みにくい接続詞を書いた場合は手が止まる。

もっとも、根がまじめなので真面目な内容を書いた時には少し文章の構成を考えて前後を修正したりするので全部が全部「一筆書き」になっているわけではないけれど。


おもしろい or おもしろくないの基準はいつも読み手にある。読む側の人が読んで「これはおもしろい」と思えばそれはおもしろいのだ。だからぼくも読み手となって自分の文章を書きながら読んでいるのだと思う。
それは自分で意識的に始めたことじゃない。今、この記事を書きながら「そうだな」と思った。

やっぱりnoteで記事を書くというのは思考整理。書いていくうちに自分の中に気づきが出てくる。自分がふだん何気なくやっているようなこととか、こうやって文章を書き殴っている意味とか、そういうのが発見できるのがいいところ。

ぼくは数学的、論理的な分析が苦手。あ、これさっきも書いた。でも、だからかはわからないけど、こうやって文章を書きまくることによって自分の思考が整理されて何かしらの答えが出てくるのかもしれない。

逆に何かをキレイにまとめたりするのは、変なところにこだわったり気になったりして全然進まないことが多い。
仕事でもそうで、本質的な部分をそっちのけで集中してしまうから、やたらと時間がかかってしまう。

ぼくは完璧主義者の不器用人間だ。

完璧を求めるんだけど不器用なのでいつまで経っても完成しない。
「サクラダファミリア」または「みずほ銀行の金融システム」の擬人化だね。


文章をひたすら書いて、自分の思考を整理すると共に読者(書いている自分)に少しばかりのおもしろさを提供する。ぼくがnoteを続けていく秘訣はこれ。

ただ、毎回毎回、自分にとっておもしろい記事が書けるとは限らない。書き手である自分のその時の体調や気分によっても排出される文は変わってくる。
ぼくはAIでもなければロボットでもない。

にんげんだもの

もしかしてにんげんがこれまで使い倒しているこの言葉を使うのって罪ですか?
すべてのにんげんがこれを言い出したら秩序は崩壊するよ、きっと。

それはそうと、人間が生み出した文章なんだからやっぱり波はある。そうであるからこその「にんげん」だ。
考えてみれば、プロ野球選手だって3割ヒットを打てば好打者なのだ。

ぼくの記事も3割がヒットならそれでいい。ヒットの基準も読んでいる自分なんだけど。
今日の記事はヒットなんだろうか。それはまだわからない。もしかしたら明日になって読み返してヒットだと思うかもしれないし、ホームランだと思うかもしれない。

わかっているのは、この記事を書き切って公開ボタンを押せばバットにボールが当たるということ。まずはバットを振ってボールを前に飛ばさなければ始まらない。

まもなく、ぼくのバットはボールを捕らえる。ボールが前に飛んだことを確認して走り出す。走り出した後、自分ではヒットと思っていても、他の誰からも相手にされないという恐れもある。それでも鈍感なぼくは走り続けるだろう。

ヒットじゃないと気づかなければいいだけのこと。ボールにバットを当てさえすればそれで十分。たとえそれがヒットでなかろうと、また次のスイングでヒットを目指せばいい。

それ、ファールか。


好き放題書きまくってきましたが、最後にこれだけお伝えしておきたいと思います。

あースッキリした!!


お付き合いありがとうございました。

じゃあ、またね。


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