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未来の自分を形作るのは少し前の自分

みなさん。

ここで重大な発表があります。


ひまです。



なんとかなりませんか?

この行間に込められた思いが、今の自分の心を端的に表していると言っても過言ではない。むしろぼくが記事を書くための原動力になっているのがこの行間にある。

またの名を「改行」と呼ぶ。

この暇を持て余したぼくがすることといえば、そう。

noteに記事を書くことである。

まさかこの「ひまである」という事実をもとに記事を書くことになろうとは、今の今まで思いもしなかった。

そしてみなさんお察しの通り、ぼくはどこに向かっているのか皆目見当もついておりません。運よく(悪く?)この記事に到達してしまった方には「ご愁傷様です」としか言えない。

でも、安心してください。

そこはこのたび気づいたらnoteの記事が100を更新しているぼく、「ぴこつ」がどんなところにも着地させてみせましょう。もしかしたら陸のない海へと漂着する可能性もありますが、そのまま漂流していればきっと救難ボートの如くちゃんとした誰かの記事が見つかることでしょう。


ぼくの記事というのは、たいていの場合が「見切り発車」。思いついたテーマやキーワードをもとに、即興の連想に次ぐ連想で記事が成り立っております。
「本当に成り立っているのか?」と問われると急に自信を無くしてしまうので、そこはどうかそっとしおいてほしい。


ぼくの中では成り立っていることとして終わりに向かわせている。

そうやって世界は成り立っているのだ。

ぼくの記事は1記事が大体が2000文字〜3000文字。これが短文なのか長文なのかはよくわからないんだけど、ぼくが記事を書いていて耐えられるのがこのくらいの長さだと言ったところ。

1000文字に到達するまでは「まだ1000文字か」と思うことが多い。

そこから乗ってきて2000文字に近づくと「いつの間に2000文字に来たんだろう」と思う。

さらに3000文字に行きそうになると「ヤバイよヤバイよ」と途端に焦り出す。

これは「長くなりすぎた」という焦りではなく、どうやって終わらせていいのかわからなくなってきているのだ。文章が長くなってきている時は収集がつかなくなってきていることが多い。

まさに自分でもどこに向かっているのかわからない状態だ。だけれど、連想しながら書いているその文章は着実に「どこかに」は向かっている。その迷走気味の文章を着地させるためにも、2000文字を超えたあたりから終わり方を考える。

・・・といった具合に毎記事2000〜3000文字でお送りしております、「ぴこつのなんのこっちゃ日記」です。

この記事もきっと2000文字〜3000文字になっていくんだろうと思う。現在1000文字を超えたところ。

みなさん大丈夫ですか?

ちゃんとついて来てますか?

ここから飛び降りても、まだ誰にも見つけてもらえませんよ。遭難しないためにも、ちゃんとした場所に着地するまでは捕まっていた方がいいと思うよ。

とりあえずいま現在も、まだまだこの記事がどこに行くのかぼくも検討がついていないことを告白しておきます。どうか一緒について来てください。

これまでの連想の先に何が待っているのか?ぼくは楽しみで仕方がありません。

そんなことを言いながら、確かに終わりに向かって書いてはいるんだけど、ぼくは幾度となくスクロールバーを上に戻して自分の書いてきた文章を少し辿っている。

そう、自分が何を書いてきたのかを確かめているのだ。

これは、ぼく自身の記憶力が壊滅的であるということはもちろんある。ただそれとは別に、少し前のぼくが何を考えていたかということを確認しているのだ。

過去の自分は何を考え、何を書き、そして何を目指しているのか。

いや、何も目指してはいなかった。いま書いていることは「いまの自分」が考えたこと。未来の自分のことなんて知りやしない。
ただ、少し前の自分を見つめ直し、今の自分の考えを確かめる。

かっこいいことを言っているように聞こえるかもしれないが、要するに「つじつまを合わせている」だけである。実にカッコ悪い。

しかし、世界はそうやって成り立っているのだ。

これもぼくのお家芸の一つ。少し前の自分が発信した内容を再掲する。つまり少し前の自分をパクっているわけだ。実にカッコ悪い。

ここまで読んできたあなたは、ぼくが文字数稼ぎに入っているかと思うだろう。

そんなあなたにこの言葉を送ろう。


あなたは勘が鋭い!!


文字数稼ぎだけではない。こんな時こそ「困った時の改行」である。この改行入れる際、ぼくは小指でエンターキーを押している。この小指に全身全霊を込めるわけだ。

「頼むからこの改行でなんとか終わりに向かわせてくれ」

と。

もうそろそろ頼みの改行もムダな改行に見えてきただろうか。ぼくもエンターキーを叩く小指がいたたまれなくなってきたところだ。

こんな風に、ムダな文章が続いた、ただのムダな長文とも呼べる記事だが、書いている本人は実はそんなに長文だとは思ってはいない。
これがまだ2000文字くらいだからとかそういうことではなく、きっと5000文字に到達したとしても長文だとは思わないと思う。

完成した記事を読み返した時は「長い文章を書いたもんだ」と思うだろう。だけど、書いている途中の今の時点ではその自覚がない。文章の終わりもまた、自分のの未来なのである。

未来がどうなっているかは、今の自分は知る由もない。でも、現在の自分を作っているのは少し前の自分で、その少し前の自分がいくつも重なっていった結果が、未来の自分を作っていく。

完成形が長文と思われるかもしれないこの文章も、実体は少し前の自分が作り出した短文の連続でしかない。


少し前の自分が未来の自分を作りだした。気づいた時にはぼくがnoteに投稿した記事も100記事を超えていた。最初から見ていた未来ではない。
この先の未来の自分がどうなっているかなんて、今の自分は知ったこっちゃない。

明日になったらnoteを書くことをやめてしまっている自分がいるかもしれない。

逆に、また明日も同じように記事を書いているかもしれない。

みなさんもお気づきだろうが、

世界はそうやって成り立っているのだ。

少なくとも明日には今の自分と同じ自分はもういない。明日には明日の自分がいる。

明日のぼくが記事を書いているかどうかはわからないが、
最後に、あなたにこの言葉を送ろう。



じゃあ、またね。


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