
世界で一番大切な弟の結婚式
両親は共働きで医療・介護従事者で夜勤もあり、誕生日もクリスマスも、年末年始も関係なく働いていた。もちろん、たくさんの愛情も教育もお金も注いでもらったし(自分で働くようになってから本当にこれは実感する。)別に何の不満もない。しかし、だからこそ弟というのは、私にとって幼い時から唯一無二のきょうだいであり、一番大切な家族であった。今もそうだ。
彼が生まれた日のことも、彼に初めて会いに行った日のことも覚えている。私はおばあちゃんの家に預けられていて、弟が生まれたことを知らされた。その時のことを思い出すと、祖母の家にあった箪笥の色が鮮明に思い出される。弟に会いに行ったときは病院の白いシーツの色と、壁の色と、窓から漏れる光でもの凄く「白」い中で、生まれたての子どものあの茶褐色の肌の色が妙に溶け込み、「新しいいのち」の色を感じた。
どの写真を見返しても、なんとなくいろんなことが思い返される。私たちはたくさんの思い出の中で生き、成長してきた。私は小学生時分からクラブ活動や習い事で外に出ていることが多かったのだが、それでもずっと弟の存在というのは私の中でプレシャスな位置づけであったし、家族の中では唯一の理解者であるという認識でいる。(今もそうだ)
そんな弟が結婚するということで、私も非常に嬉しく思うし、お嫁さんにはきっと幸せになってもらいたいと心から願っている。彼女も私の大切な家族となる。彼らの間に子供が生まれたら、きっと私にとっても大切な家族となる。素敵なことだと思う。
こんな生活を送っているので、交友関係も非常に狭く、思い返せば幼い時に行った叔父の結婚式以来の結婚式への参加。大人になった今、何を着ればよいのか、何をどうしたらいいのか、など、経験値の高い(私よりコミュニケーション能力が高い)クレモナメンバーや、ヘアメイクさんにまで相談をし、お客さんに相談をし、自分の中で大騒ぎをしながら、そしてワクワクしながら準備をする。個人的なことでこうしてワクワクするのはとても久しぶりであった。
結婚式というイメージそのままの結婚式で、(テーマパークで挙式という夢のようなイベントだったため、途中にツインテールの汚いコドモの乱入などもあったがそれも良し。)賛美歌を歌い、とりあえず誰もパートに分かれなかったのでアルトを歌ったりテノールを歌ったりして楽しみ、号泣する弟、母、祖母に若干引いてしまい、泣くタイミングを失った私はとりあえず写真撮影に徹する。
スケジュールが非常にタイトだったために楽譜の制作も徹夜続きで仕上げた。(行きしなの近鉄特急は感動的な乗り心地で、1時間半蒸気でアイマスクをつけながら爆睡)もちろん、メンバーにも大迷惑をかけ、楽譜の配布から練習まで全てで1時間も譜読みできていないような状態でいたが、文句を言わずに付き合ってくれた。本当に感謝だった。
クレモナの紹介文に「姉とややこしい友人たち」と書いたら、弟が「ややこしい姉と友人たち」に勝手に校正した。彼はどこまでも気が遣えるいいやつだ。
どうしても披露宴となると他人同士のテーブルでなんとなく楽しまないといけなくなるために、弟をダシにMCでいろんな話を繰り広げ、とにかく場を温めて和にすることに徹した。スープをつくるような気分だった。
弟の結婚が決まる前から、弟が結婚したら必ずこの曲をどこかで演奏しようと思っていた布施明さんの「少年よ」もオリジナルアレンジで演奏できた。これが良かった。
演奏当初から号泣する情けない弟であって、フルートゆきがもらい泣きをしそうになるなど危険な局面をくぐり抜けつつも、一度は弟の顔を見て歌いたいと思い顔を上げて歌ってみたら私にも伝播。2番のサビはほとんど聞こえない状況だった。間奏を長くとっていたのでなんとか復活できた。「新郎の姉はプロの演奏家なので泣いてはいけません」と自分に言い聞かせ続けて完奏した。
実は、この曲を個人的に弾き語りして練習している最中からボロ泣きしており、この本番では泣くまいと何度も練習で泣いておいたのだった。また、爆睡した後の近鉄特急の中でも、何を話しするかiPadと向き合い号泣しながらMCの内容を打ち込んでいたのだった。(近鉄難波より斜め後ろに座っていた青年は弟の友人だった。泣きはらしていたのも、化粧していたのも彼は目撃していたのかもしれない)それくらい、自分の中ではもの凄く大切な一日だったし、大本番だった。結婚式に至るまでにもう十分泣いたのだった。