ごめんね、私の両足。
筋肉は情動。
というメモがある。三位一体。心と魂のことを学んだなら体も知りたい!と勉強し、体のケアをするのはどうやら自分は違うなとなったが、知識としては時々学んでいる。
筋肉は、感情を覚えている。悲しかったこと、ムカついたこと、嬉しかったことは筋肉が記憶しているらしい。「楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しい」みたいなものだろう。
いつもただの日記なのだけど、この話は誰かの役に立つんじゃないかなぁと思って書いている。
最近体の施術をしてもらっているのだが、そこが不思議な所で、体の声が聴けると、私が教員をやっていたことも言わなくとも体から聞いていた。
先生から「子どもの頃足を怪我した?」と聞かれ「子どもの頃はないけど、大学時代に左足を捻挫しました」と返した。
ドキドキしたのが、この捻挫の話を偶然にも2日前に思い出しながらnoteに下書きしていたのだ。まだupしていないので、内容を軽く貼っておく。
正座をしなきゃいけない意味不明な体育会系な場面もあり、足が痺れた。どうしてもその時立ち上がらなきゃいけなかった私は、気合で立ち上がったら40人の前で転けた。立ち上がれなかった。
救いは先輩が小声で「可愛い」と言って笑ってくれていたことだ。
しかし現実は可愛くない。私はこの時、恐らく捻挫していたのだ。
いつものように階段を駆けると足が痛い。けど病院行く暇も「痛い」なんて言う暇もない。
その後、走ると左足の付け根がたまに痛むようになってからたぶん軽く捻挫してたんだなと気付いた。
とはいえ、捻挫の話をしようとしたわけではなかった記事。でもこの記事を書いていたので、その時の状況は思い出さずともたくさん出てきた。
しばらくは走るとたまにズキッとしたが、今は痛くもなんともないものだと思っていた。
しかし、この捻挫をかばって私の右足がずっと頑張っていたらしい。
片方怪我をすると痛くなくてもそのような癖がつく、と。これが幼い頃であるほど根深いものになりやすいらしい。
そして、私の左足はこの時「なんで私ばかり」「頑張っても損する」という記憶を持ったそうで。
当時、私が毎日仕事をしてきても相方はやらず、相方には雑用を頼んで結局ほとんどの仕事を自分がしていた。
私の話を聞いて先生は「大変だったね」「頑張ったんだね」と左足に話していた。
「頑張ると損するから、やりすぎない方がいい」と左足は思い込みがあって、右足はかばって歩くことで負担があり、それが少しずつ蓄積していたらしい。
正直、思い込みがあったのかはまだよくわかっていない。
けど数日前に偶然この捻挫のことを思い出して、このような話があって、となると意味のあることだとしか思えなくなる。
悩みや質問はあるかと聞かれて、恥ずかしながら「やる気がない…」と答えると、あぁ、と先生。
本来、やる気はすごくある方なんですよ。体の負担も少しずつ影響されて性格も変わるんです。
そんな感じのことを言っていた。衝撃だった。
こんな気づかない間に体の傷で心が変わっていくものなのかと。
こういうことはきっと、心からでも体からでもケアできるのだと思う。
ただ、心の弱さとか甘えとか考え方じゃなくて、体から心に傷ができることもあるのだと多くの人が知れたらいいのになと思った。
ずっと頑張っていた私の足に、ごめんねとありがとうを時々言っている。
体もちゃんと頑張っているのだと愛おしくなった。