評価してもらえることは贅沢だ。26歳で味わったプレッシャー
家族がいるという責任感
深夜3時半。
私は母から寝ている時に
背中が痛いと起こされ、
母の背中にタオルを敷いた。
「多分姿勢が悪いし、身体も細いから
負担がかかって痛いんだよ」と伝えた。
念の為、母の携帯でGoogleを開き
「寝てる時 背中 痛い」
と検索しようとした。
携帯のGoogle検索欄に
「自殺」「死に方」「心臓が止まったら」
という文字が羅列していて、一度止まったが、
とりあえず背中の痛いという問題を解決し、
私は寝室に戻った。
娘がこんなに頑張っているのに
父も母もよく「死にたい」というのは
考えものにも程がある。
私は基本的には前向きだと思う。
母が生きていて本当によかったと思っているし、
母が退院した後も、
全員で協力したことなかった家庭が
家事に介護に、協力できるようになるというのは
凄くよかったと思っている。
ただ、私ってこんなに無力で弱いんだと
多々思うこともあり、夜中に枕が気づいたら
悔しさで濡れていることもある。
贅沢な環境
今考えれば職場も学校も贅沢だ。
悩んだら親身になって、相談に乗ってくれる
上司や先生がいる。
そもそも、頑張ったことを評価してもらえる環境ですら
私は贅沢だと思う。
ましてや、それに点数や主観的な意見を頂けるなんて。有難い。
大人になったら、私が弱音を吐いている1分1秒に
相手の時給が発生してくるような感覚になるし、
いくら稼ごうが、
私が等価交換によって選択したことに過ぎない。
稼いだからと言って、誰かが私に100点をくれる訳ではない。
だから、余計に自分の気持ちは自分でしっかり
受け止めてあげないといけないし、
自分自身の評価も自分でする必要があると思う。
一緒に心を震わせる仲間
ずっと人々に夢を持たせられるような、
リーダー気質で統率力のある人に憧れていた。
ワクワクするような目標を掲げ、
ワクワクするような未来を想像させ、
人々の心に希望を生み出す。
明日、明後日、明明後日のことは
誰にもわからないが、
人に希望を抱かせることが出来る人は
人を幸せにできる。
私がなんだかんだで幸せなのも、
少しの希望や光に着目し、未来に希望を持って
走っているからだと思う。
それが生きがいになるし、
少しでも明日に光があると思えるなら
それは幸せだ。
突き詰めた結果、
人間の幸福は人と人との間柄でしか生まれない
と思う。
ブランド物もそれを素敵だと感じている人がいるからこそ
それを身につけている自分を肯定出来るわけで
世界に自分1人だけだったら
果たして、それを身につけるだろうか。
感謝すべきは、極論、人だ。
今まで、自分が感じた幸せは
喜んでいてくれる人がいたり、
一緒に目標を追いかける仲間がいたり、
自分を認めてくれたり、
肯定してくれる人がいるからこそ、感じられるものであると思う。
どれだけ素晴らしいアイデアや企画を
世の中に生み出したとしても
それに一緒に心を震わせ、ワクワクしてくれるような仲間がいてくれなければ何も生まれないのだ。
だから、私は自分の周りの人やリスナーさんには
ワクワクする未来を見せ続けられるような人でありたいと思う。