なぜ私は隣人ということばをよく使うのか
きっとあなたのお住まいの近くにも「お隣さん」にあたる方が1人はいると思います。仲良しとまでは言えないけれど「ああ、どうも。」としばしば顔と顔を合わせる関係です。
「隣」とは書きましたが「隣り合わせ」とも限りません。時々上と下で発生する関係が今私が住んでいるアパートなので、私はまとめて「隣人」と呼びたいと思います。
20代前半で、多人数同居形式で共用スペースと個室を持ったシェアハウスを経験し、その後東京都内ではワンルーム暮らしで3回引っ越しをしました。当時から「ひとり暮らし」と呼べるとは言え「ひとり」で暮らしてはいないなという意識がありました。
災害の時に心強さを意識するお隣さん。3.11の後から、私は隣り合わせのそんな方々との深いつながりを大事にしてきました。
住居だけでなく働き方も多様になった今、昔とは違う働く環境があります。
30代でコワーキングスペースを利用してきて、家族以外でも隣り同士で話をする隣人がそばにいることが当たり前です。こうしたコワーキングスペースで、隣人からリアルに交際を続ける友人関係になった方もいます。
そもそも隣人って誰?と質問を受けたら、私は距離感の違いで2つの回答をセットで用意します。
まず身近な隣人は、いつもそばで頑張っている家族や友人、働く同僚。
家族や友人、働く同僚以外にも、私が想像するよりずっと幅広く、それぞれに大切に思う存在が、一人は思い当たるでしょう。
SNSやオンライン会議ツールのおかげで友人という概念も広がっています。何年も対面では会っていない人とも、ようやくリアルで対面が出来た時「私たち初対面だったっけ?」というように意気投合できてしまいます。こんな経験が一度はあるのではないでしょうか。
一方で、とっさにケアが必要になる隣人という人もいて、これは誰もが自分ごとになりえます。
例えば、どこかに電車で向かっている時、アナウンスが流れて気づく「具合の悪いお客様」という存在がもし隣に居合わせたら、それはまさしく「ケアすべき隣人」だと思います。
ケアできる可能性を持つ隣人はいつも社会のどこかにいて、仲が良い関係性以上に、時と場合により大切にするべき存在です。
ケアが重視される社会で、隣人はどんどん拡大すると私は考えています。
他にも私が隣人と認識しているのは、自宅に配達に来る配達員さんや、近所のお店の方、通っている美容院の美容師さんなど。名前までは知らないけど顔見知りの関係でサービスでお世話になっている方々です。
誰もが疲れを見せずに対応してくれますが、誰もがロボットではない生身の人間。ひとりのお客さんである自分が少し思いやりの気持ちを発揮したいなとなったとき、ちょっとしたギフトの関係になることだってあります。
私はとにかく幅広く、隣人の存在を捉えてきて、ギフトを送る存在としてもとても大事にしてきました。この隣人という私なりの対象の見方は、ギフトでコミュニケーションできる存在でもあります。
特に自分より年齢を重ねた方や、何らかの事情で大変な状況にある方には「喜ばせたい」というより「支えたい、力になりたい」という気持ちが働きます。
物理的な意味でのお隣さんに話を戻しましょう。
今、住んでいる家で私がついお隣さんのインターフォンを鳴らしたくなるのは、1人には有り余る美味しいものが手に入った時。より踏み込んで、顔と名前がわかるくらいのちょっと仲良しな関係なら、またできることが違ってきます。
今の季節なら柑橘系の果物や野菜、ちょっとしたリラックスグッズなど、晩夏の疲れが癒えそうなアイテムがおすそ分けできそうな時なんかもいいですね。
引っ越してからまだちゃんとしたご挨拶ができていないなという方も、今度の週末、少しの勇気でお隣のインターフォンを鳴らして、「ごめんください。ちょっとおいしいものをお裾分けにきました」とご挨拶してみてはいかがでしょうか。
また、すでに私からギフトを贈られたことのある方。あなたはもう私の大切な「隣人さん」であるということです。
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