お風呂が先か、ご飯が先か、それとも? | 選択を巡る思考(脱線気味)
こう尋ねられたら、
だいたい本音はご飯を先にいただきたい笑。
でも先にご飯を食べてしまうとお風呂が面倒になるから、やっぱり先にお風呂だ。
よくこんな風に「こうした方がいい」と考えて選択をしている。
単純な「こうしたい」より、「良いと思われる方」は何か考えている。
生活していくためには必要だ。
でも、それは本能的に欲するものと必ずしもイコールではなく。というかおそらくほとんどイコールでない気がする。
忙しい日常にはこなすことがたくさんあり、社会の中で生きていると
「良いと思われる方」としてとる選択は、本心というより「こうあるべき」から来ていることが少なくない。
お風呂かご飯か、くらいのことならまだいいのだろう。
でも、社会的生き物としての「良いと思われる方」を選択しつづけていると、自分の本心は一体なんだったか。これは本心なのか、それとも実は周りを見ているうちにそれが「良い」ことだと思うようになったのか、時々わからなくなる気がしている。
「良いと思われる方」には、育った環境、文化によって、知らぬうちに蓄積されたことが多く含まれていると思う。
人は生まれた時は真裸だけど、徐々に社会の中でこれが普通だレイヤー(層)に包まれていく。
そうすると選択を迫られ、いざ本心は何か問うても。
その分厚いレイヤーによって本心が見えない、見えにくくなっている。
本心だと思い込んでいたものが、実は他者目線の「良いと思われる方」であることに、もはや気がつかなくなったりもする。
自分って本当はどうしたいんだっけって。私はわからなくなることがある。
悲観するわけではなく、社会の中で生きていればありうることだし、今まで自分自身経験してきている(それにこれからもあるだろう)から、時々このことを考える。
人間は一日に何万だかの選択をするという。
どうする?どっちの方がいいかな?と、たまに目の前の相手に頼って聞いてみるならば「どっちでもいいよ」「任せる」と返ってきたりしてため息。
決めてくれ。誰か決めてくれ。時に選択は億劫だ。
また選択?今日は洗濯もまだなのに!
”こうあるべき”だから、”どうするべき”だという、「べきべき」由来の選択だから硬くてつまらないのだ。
柔軟剤はどこに行った?
本音を探れば、どうでもよかったりする。だってどっちもいやなんだもん。できることならやりたくないんだもん。
ただ美味しいご飯食べて、好きなことして自由にしていたいわ。
そうすると頭上から聞こえてくる。
「なんだか情けない話だわね。」
「そろそろいい歳なんだから、ちゃんとしないとね。」
あーあ、二回目のスピンだ。「しっかり」モードで洗濯したもんだから。
もちろん、しっかりモードでの選択も必要だ。
現実にはこなさなければいけない日常があり、払わなければいけない家賃がある。
それでも、そんな中でも自分の本心を見失わないために。
これからも授かった自分らしさを大事にしていくために。
朝起きたら今日は何かちょっとでも楽しいことできるかなって。
ワクワクする方に導いて。
ときめくこと思い描いて。
嫌なことは嫌だ。と心の中だけでもピリオド打つことを忘れないようにしたい。
じゃあどうする?と、すぐに行動に移せなかったとしても、違和感や反感を無視しないで。
時にネガティブな感情も、自分のありたい姿に気づかせてくれる大事なヒント。
一月の日本出発前、最後の散策日。西日が眩しくなりはじめた頃、疲れた足で宿へ戻ろうとするも、浅草郵便局を出た後、私は道に迷ってしまった。
歩いていると、年配の女性が、電話越しにこう尋ねているのを耳に挟んだ。
「お寿司がいい?それともお刺身がいい?
それとも両方?」
なんと。
両方でもいいのですか。
そんな選択肢もあるのですか。
私には縁のない食卓だが、ワクワクしておもしろい!と思った。
勝手に聞いてしまって、こちらに書いてしまってごめんなさい。でもすごい吸引力だったんです。
願わくば両方。
そんなことも時にあるだろう。
どちらかしか選べないと言ったのは誰ですか。
それって本当?
いろんな形があっておもしろい!と思える世界がいい。
「どちらもっていうのは、ちょっと厳しいんじゃないかしらね」って。
確かに、あの成績優秀な特殊左脳部隊(SLBT)が言っていたかもしれない。
実は両方でもいいのかもしれない。どっちもやめとくでもいいのかもしれない。もしくは、目の前にない新しい選択肢でもいけるのかもしれない。
両方をオファーするそのお母さんに、なんだか新しい箱を開けていただいた気持ちになりながら、私は探していた浅草駅とは正反対の間違っている方へと歩いてしまっていた。
あることだ。
時に違う道を行く。それも根拠のない自信を持って。
「両方がいいなぁ」ってそのお母さんの食卓を憧れながら。
でも根拠のない自信って意外といいものだと思っている。
途中、道路工事のおじちゃんに「浅草駅はこっちであっていますか」と尋ねた。
おじちゃんは知らない風だったけれど、「こっちだね」と全然違う方向を指差した。
適当指差しは、ルーブル美術館で「ミロのヴィーナスはどちらですか」とスタッフに尋ねた時以来だった。
二人のスタッフに別々に尋ねてみたが、それぞれ正反対の方向を指差した。
私は笑ってしまって、それからというもの適当指差しが嫌いではない。
社会のものさし「良いと思われる方」で生きると、順調なようで、結局遠回りをしている気がする。
少なくとも私は過去の自分の選択を振り返って、そう感じている部分がある。
その時自分をよく知らなかった部分もあるだろう。
私はそのおじちゃんが指差した方向を信じて、一瞬足を進めた。
でも「多分こっちは違うだろう」という直感に、次の角を曲がった。
歩いてみていい。
うまくできなくても経験がなくても、試しにやってみる。
なんだか気になるは、いいサイン。
ワクワクするならゴーだ。
違ったと思ったら、ちょっと左折してみれば大体大丈夫でなかったっけ。
命の危険がないことなら。
「元には戻れないかもしれないから、やめた方がいい」なんて、特殊左脳部隊は始める以前に、随分とドラマティックなことを時々言ってくるけれど。
この特殊左脳部隊(つまり安心安全を求める自分…)と闘うのは大変だから。
月並みだけど、迷ってどうしたいかよくわからなくなったら、どこでもいいから外に出てみるのがよいと思っている。
不思議なもので、
眩むような夕日。
輪郭の美しい月。
鋭角に飛ぶ鳥。
沈黙の上に鳴る木々の音。
目の前に海が開けた瞬間。
そんな時こそ、力まずとも心の声が聞こえてくる。
今思うことは、シンプルに。
行きたい方向に歩きたいということ。
「こうしたい」と心の声が響いてきたら、その響く方を選べる自分でありたい。
そして心身一体だから。
体力も必要だ。2024年は体を鍛えよう。