週記2_真の学習には「静けさ」が伴う(その1)_190729
最近の関心の一つに、スピノザの『エチカ』の論証を理解しようとすればするほど、あるいは理解が深まっていけばいくほど、静かで落ち着いた気持ちになっていく、という経験がある。
ところで、学習(気づきや人格形成)における「静けさ」の重要性の指摘は、これまで東西問わずなされてきた(例えば、仏教、シュタイナー教育、哲学者イヴァン・イリイチ)。そこで、私は「真の学習には「静けさ」が伴う」という仮説を立て、検討を進めてみることにした。
ここでは『エチカ』第一部定理五までの論証を題材にして、その実験的検討を進めてみたい。まず、定理五は次のようになっている。
定理五:自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。
証明:もし異なった多数の実体が存在するとしたら、それらは属性の相違によってかそうでなければ変状の相違によって区別されなければならぬだろう(前定理により)。もし単に属性の相違によって区別されるなら、そのことからすでに、同一属性を有する実体は一つしか存在しないことが容認される。これに反して、もし変状の相違によって区別されるなら、実体は本性上その変状に先立つのだから(定理一により)、変状を考えに入れず実体をそれ自体で考察すれば、言いかえれば(定義三および公理六により)実体を正しく考察すれば、それは他と異なるものと考えられることはできない。すなわち(前定理により)同一属性を有する実体は多数存在しえず、ただ一つのみ存在しうる。Q.E.D. [1951 畠中尚志訳 岩波書店]
今後、ここでは、次の二つを何週かに渡って行うこととなる。
⑴ 『エチカ』定理五証明までの論証の検討
⑵ ⑴の過程において、私に何が生じていくか、の記述と分析
今週は⑴に取り組む前提として、必要な定義、公理、定理を列挙して終わる。文字数(910字)オーバーだが、今回は多めに見る。
定義三:実体とは、それ自身の内にありかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。
定義四:属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。
定義五:様態とは、実体の変状、すなわち他のものの内にありかつ他のものによって考えられるもの、と解する。
公理一:すべて在るものはそれ自身のうちにあるか、それとも他のものうちにあるかである。
公理六:真の観念はその対象[観念されたもの]と一致しなければならぬ。
定理一:実体は本性上その変状に先立つ。
証明:定義三および五から明白である。
定理四:異なる二つあるいは多数の物は実体の属性の相違によってか、そうでなければその変状の相違によって互いに区別される。
証明:存在するすべてのものはそれ自身のうちにあるか、他のものうちにあるかである(公理一により)。すなわち(定義三および五により)知性の外には、実体およびその変状のほか何ものも存在しない。ゆえに知性の外には、実体あるいは同じことだが(定義四により)その属性、およびその変状のほかは、多くの物を相互に区別しうる何ものも存在しない。Q.E.D.
まずは定理四の検討から始める(来週に続く)。
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