週記1_誤読は悪いことなのか_190720

以前からしてみたい、と思ってたので「週記(毎週土曜)」を始める。ダラダラ書き始めると、時間を浪費してしまうし、それゆえ続かなくもなりそうなので、「910字」と文字数を限定してやっていく。もう130字ほど。この部分は文字数に入れないことにする。

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山内志朗さんの『「誤読」の哲学』を手に入れたので、冒頭40ページほどを読んだ。印象的だった節を引用する。哲学史との関わり方についてだ。

「一つの正解を暴力的に強要され、それを求めるべく、自分自身を強迫の中に追い込むことに現代人は疲れ果ててしまっている。疲弊しか生み出さない真理とはどういう真理なのだろう。哲学にとって真理とは何だったのだろう。哲学は真理への強迫に突き動かされる必要はない。人生が幸福への強迫によって追い立てられる必要がないのと同じように。」

山内が問うているのは「真理は一つである」という思考の前提である。絶対不動の一の想定とそれへの憧憬は、ときに疲弊、ときに対立、ときに争いの起因となる。本書で山内が提案するのは「誤読」である。

「誤読することはとても悪いことのように思われているけれど、[…]そんなに悪いことなのか。」

「一生の間に読める哲学テキストも、一生の間にできる哲学思考の総量もたかが知れている。ほんの少しだ。」

「PDF版の無料公開によって、もはや処理も誤解もできないほどの量の文献が簡単に手に入るようになった。読まないまま知らんぷりしてうち捨てるか、誤読して乗り越えていくしか方法はない。ともかくも、伝統は、中世においては遠くを見通すための巨人の肩だったが、今では背負おうとする未来の人を押しつぶす巨大な仏壇になってしまった。」

「近世の哲学者にしろ、スコラ哲学を誤読できたからこそ、スコラを超えられた。伝統を破棄することは、「親殺し」であるが、誤読は「親殺し」の有力な方法なのだ。伝統を誤解するというのは、理解した上でそれを乗り越えることだ。無理解とは異なる。」

一つの正解への固執でもなく、無視・無理解でもなく、「誤読」という方法の提案。山内によれば「哲学とは誤読への勇気なのである」。
本書では、中世スコラ哲学を専門とする山内自身の視点から、「誤読の天才」としてのドゥルーズとフーコーの、「誤読」の手さばきを明らかにしているようだ。読み進めるのが楽しみである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用:
・山内志朗 2013 「誤読」の哲学 ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へ 青土社

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