週記3_真の学習には「静けさ」が伴う(その2)_190804

週記2(https://note.mu/piecemeal/n/nf9e7476cc80e)の末部で述べたように、定理四の検討から始める。内容は以下であった。

定理四:異なる二つあるいは多数の事物は実体の属性の相違によってか、そうでなければその変状の相違によって互いに区別される。D.
証明:存在するすべての事物はそれ自身のうちにあるか、他のものうちにあるかである(公理一により)。すなわち(定義三および五により)知性の外には、実体およびその変状のほか何ものも存在しない。ゆえに知性の外には、実体あるいは同じことだが(定義四により)その属性、およびその変状のほかは、多くの物を相互に区別しうる何ものも存在しない。Q.E.D.

この定理は、「異なる distinctes」とみなされる二つ以上の「物(羅:res / 仏:chose)」がいかに区別されるか、についての言明である。

スピノザ哲学において「存在するすべての事物」は「実体」か「様態(実体の変状)」かのどちらかである。それゆえ、もし二つの物が異なると見なされる場合、その二つは次の三パターン以外はありえない。すなわち、1/ 実体と実体、2/ 実体と様態、3/ 様態と様態、である。

定理四は、そう帰結されるような異なる二つ以上の物が、「属性の相違」か「様態の相違」かのどちらかによって「互いに区別される」ということを論証している。

読者がここで戸惑ってしまうのは、どうして「実体の相違」によって区別される、という可能性が排除されているか、である。

実際に証明内では、「実体あるいは同じことだが(定義四により)その属性」と付せられている。(ちなみに、定義四は「属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。」であった。)

この点の証明を安直に解釈していくならば、ここでは属性と実体は等意であるから「実体の相違によって」と書く必要がなかった、と言うことができるだろう。しかし、そうであれば、「実体の相違」と書けばいいのであって、「属性の相違」と書く必要もなくなってしまう。

基本的に哲学者が、意味もなく、二つの言葉を用いることはないし、また使い分けることもない。読解者に求められるのは、そこにあるはずの必然的な「理由raison」である。

それでは、スピノザはどうして「実体の相違」ではなく、「属性の相違」と書かねばならなかったのか

ここには、中世から近世哲学にかけてのある種の共通事項としての、「知性」という「物」、ないしは、「物」としての「知性」という考え方が関わっていると思われる。すなわち、「観念idée」や「精神mens」などは、その外に実在すると考えられる物理的な「物」ないし「対象objet」を表象し、それと内容的(質料的)な対応関係を有する、という側面を持つと同時に、その当の観念や精神自体も、一つの「物」である、という側面を有する、という考え方が関わっている。

(その3に続く)

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