美しい日
大学院の仲間と、昨年度修了したOGの教室を見学に新潟市へ。
学校実習で授業実践していた「大学院生のお姉ちゃん」は「先生」になっていました。
当時も、なるほど、よくやるなあ〜なんて思っていましたが、その一つ上の実践を重ねていました。
算数と社会科の二コマを参観させてもらいました。
どちらもセオリー通りの『』
ただ、初任者でそれを徹底できるのがすごい。
活気のある教室で進んで学習に向かう子どもが多い空間に圧倒されました。
私たち来客者にもとっても暖かい雰囲気。
授業の振り返りの用紙を見せてもらうと、「次は早く終わらせて教えたい」「誰それに教えてもらった」
やっぱり一定数は他者意識の高い子どもたちがいることがわかります。
授業者は、「(ひとりで)できる」と「できない」の間に、「教えてもらってできた」「できるかも」という領域があることを図示します。
「みんながここより内側に入れるようにやっていこう。」
今日の授業では普段と異なる関わりが多く見られたと言います(授業者談)
パッと入ったものとしてはそこは解説がないと分かりません。
継続して参観する意味をここでも感じます。
ちょっと話は大きくなるけれども、彼らの地元にいる大人の多くは地元の人間であって、その関係のある程度は学校生活で形作られているものがあるはずです。
今この教室にいる子どもたちの一部はいずれは大人になって、「地元にいる大人」になるわけです。
たかだか算数や社会かもしれませんが、そこでの試行錯誤や失敗、それを踏まえての関係の構築が数十年後のこの地域に何らかの影響をもつわけです。
教室には歴が積み重なります。
教師の醍醐味はその物語を共有できることです。
物語を共有できていない部分は参観者には語ることができません。
毎授業前後の語りは、1日の最初と最後だけでいいのかも?
他者を援助することの意義を具体的に伝えてもいいのでは?
教師が言って聞かせている間は横槍を許容しないくてもいいのでは?
そんなことがよぎりもしましたが、これまでの彼女と子どもたちのやりとりを見ていない人間には語る資格はないし、かえって転換したからワークしなくなる未来もあります。
教室を語れるのは教室を共有している人だけかなあと改めて学びました。
そんなことを一緒に参観した仲間に伝えたら納得してもらえたみたいで。
是非是非継続して関わってほしいなと思うところです。
正直、互いにこれ以上の研修はないのでは?とさえ思うほどです。
そんなこんなで参観が終わりましたが。
私としては、彼女が職場で、
「柔軟に色々なことに対応し、大変はこともある中で"芯"を持って実践している」
と、同僚にとっても大切に思ってもらっていることにほっこりしながら帰路に着いたのであります。