
やれ - 最近何をしたか 2/2-2/12
最近何をしたか、と、自分で書いているが、普段からなにもしていないのが事実だ。面白いことに遭遇したとか、世界で大きな動きがあったとか、そういうのは私にはなく淡々と過ごしているだけ。いつものことだ。もちろん、報道されていることに目を向ければ、インフラの老朽化かが原因かどうかは分からないが、大きな道の真ん中に大きな穴が開き、不幸にもそこに車が落ちた。その場の状況が危険ということもあり、問題の収拾に長時間かかっていて、落ちたトラックの運転手は安否不明で、時間的なことを考えると絶望的なのでは、と思ってしまう。冬ということもあり、人がたくさん死ぬ時期だが、何もなくただトラックで道を走っていた人、何の落ち度もない多分健康だと思われる人が、何の前触れもなくそのような目にあってしまうのはいたたまれないし、想像することができない。起きたことの意味は理解はできるが感じられないのだ。
アメカチ
一方アメリカではトランプ大統領が関税など、やりたい放題のように報道されている。それが私にはどこまでが事実なのか、事実ではないのかは分からない。ある程度事実だとすれば、アメリカという民主主義の主要な国であっても、独裁への揺らぎのようなことが起こうると感じる。彼が就任してから行った、現在は行き過ぎとも思われるLGBTQ+の流れは、政府が公式に認める性別を生物学上の男女とするようだ。LGBは認めるものに包括されるので悪くないだろう。多様性が失われるという人もいるが、トランスジェンダーやクィアの人たちは基本的に自己申告であり、感情でもあり、そういう人々を尊重するということと法的な線引きは違うということだろう。それらを叫ぶ人の中には立場を拡大解釈をして、世界を自由に泳ぎ、謳歌するための仮面と思っている人が一定数いるように感じることもある。
得より徳、合理を
変な話になるが、ある程度以上の存在を見聞きすれば、そのような人の中には下品と思われる人たちも一定以上いると感じる。ああ、また下品の話か、と、自分の下品さを思い出してしまい嫌なのだが、もらえるものはもらわないと損、そんなことばかり考える人間が多い気がするのだ。それはTQ+の人たちの一部だけではなく、仮面を切り替えるだけで得が転がってくるのなら、いくらでも仮面を切り替えても恥がない人たち。得をするためには大切と思われるものを捨てる軽薄さも必要と割り切れる人。そんな誰でもある話だ。それは善悪で判断することもできないし、合法ということなら歯止めには限界はある。やはり考えるという教育ができているかどうかもあるが、結局は今回のトランプ大統領のように国がどうにかする必要もあるのだろうか。得を求めるということは尊重するが、限度というものはあるだろう。これからはそのような戦いも始まるだろう。
独裁への揺らぎと書いたが、トランプ大統領に感じた独裁的なものは上記のようなことではなく、紙ストローをプラスチックに戻したことでもない。メキシコ湾をアメリカ湾に変更したことでもないし、カナダやグリーンランドの話でもない。私が思うのはメキシコ湾をアメリカ湾に変更したことにAP通信社が従わなかったことで、ホワイトハウス側がAP通信社の記者を大統領執務室や大統領専用機での取材から締め出したということだ。独裁と言い切れるものではないが、独裁的とは思える。私は紙ストローやプラスチックの問題、行き過ぎた再エネの政府の支援の縮小は合理的な判断だと思う。それが先んじて日本国で行われたら、どれだけ合理的だっただろう。だが、そしてそれを気に入らない新聞社や通信社がいて、その政策を決して認めなかったとしても、日本国政府は締め出したりはしないだろう。
超大国
パレスチナのガザの問題やウクライナの問題もまだ私には知らないことばかりだが、ニュースなどを見ていると、トランプ大統領のやる気はあって、それが軽い言葉として発言に出てしまうようだ。そういうことも問題だろうが、それらの問題の今後を決めるのは彼一人ではないだろう。だが、ガザもウクライナも当事者の知らぬところで当事者の大きな命運が決まってしまうように報道されている。これが事実だとすれば危険だ。しかもウクライナの場合は、ヨーロッパも、ウクライナも越え、直接プーチン大統領と決めてしまうような状況だとすれば。いくらかの大国も含む多国が絡む軍事的な問題を、超大国二国が決めてしまう問題となるので、一歩間違えると大問題になるだろう。いや、それだけではなく、ヨーロッパの軍事的協力関係の変更など、もっと大きなことが起こるかもしれない。何事もそのような損得のディールで考えてしまうのなら、国際的な枠組みや協調の意味は薄れてしまう。
毎回同じ
で、最近何をしたか、だが、私が何をせずとも世界は動いていて、目まぐるしく変わってゆく。現在はそういう時期でもあるのかもしれない。そういう時には、いや、そういう時だからということではなく、ある程度体調が悪かったり、苦しかったり、うれしかったりした時でも、いつも目を開いて様々な角度から物事を捉え、考えなければいけない。だが考えるというのは結構面倒なもので、深くなると疲れてしまう。そして無意味に感じ、徒労感に襲われることもある。だが、ほかの人と比べて私は足りないことだらけなのでそうしないといけないと思っている。だが、できていない。そのジレンマがマイナスのループになってしまうのだ。毎回同じような結論になってしまう。自分に足りないものを埋めたいのだろうが、滑稽だ。書いている暇があれば、やれ、ということだろう。やれ、というと、まあ、考えてはいるのだけれどね。足りないね。
黒から
勘違いをしている。電子を纏い、それを指の先から放てば。多分思い通り。それを感じれば感じるほどに黒という粘性の高い沼に落ちる、落とされる。どうにか起き上がってみても、ペンキどころではないゲルに近いゾルに息もできず、黒は闇で孤独だと知る。だから発破、分かってる。電子の先に見えていたはずの誰かと繋がれれば、吹き飛んだ黒から出られるさ。
善でいるぞ
狭い場所に善人が集まっている。そんな修行。反響してうるさくても響き続ける善への教えは、彼らには心地よい響き。それは、いつかどこかで見た、ヘッドフォンをして教祖の言葉を聞き続ける修行、と似ている。自分で判断して教えを乞うているつもりが、途中から落ちてくる教えがすべてとなる。幸せだな。それはそれでいい、たがそこで他人にまで強いるなよ。
過ぎる、浮かぶ、見る、戻る、逢う
静かにして、触れあって、耳をすませば聞こえてくる。遠く奥深い生の響き。今だけじゃなく過去にも未来にも落ちてゆく、深さ。あなたを見つければ思い、走る。目まぐるしい確認の応酬。どこまで入ってしまえば響きあえる。共鳴すればね、音がなる。その響きを感じたなら、指と腕と、髪までからみあうだろう。響くその音は生の音。この世界のあなたの音。わたしとの共鳴。