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真っ裸のことば - 最近何をしたか 10/13-10/23

今日は選挙の日だ、石破総理が選出されてすぐ衆議院解散に踏み切った。それに直接なにかを書きたいということではないが、選挙などに対する情報収集について今年思ったことを書いてみる。

まぼろし

私はテレビを見ない。何度か書いていることだが、それはそういう主義だとか思想的なものだとかではなく、ただ時間が足りないからだ。衰え。昔は家にいるときは常にテレビを点けていた。それが当たり前だったし、一人ではなんだか淋しい気がしていたからだと今は思う。それによって様々なことが耳から入ってきて、中には無意味だけど記憶してしまうような、無駄なことも多いが多少は有用なこともあった。それが年を取るにつれどうでもよくなってきた。その分岐点は大地震でテレビが崩れ落ち倒れて壊れかけ、それから時間が経ち完全に壊れたという理由だ。

どうでもよくなったこととして、それらからの年月を経ることで自分自身の能力が失われていると分かった。今までできていたことが同じ時間で処理できない、一日の決まった時間の中やその瞬間で不必要なノイズに時間を割くことができないのだ。自分の能力を思えば少しは淋しいが、その衝撃を受け、考え、知ったこともあったし、得るものもあった。だから思想信条ということではなく、必然としてほとんどの部分が不必要なノイズだったテレビは、自分の中から淘汰されただけで、今からするとまぼろしのように感じ、その程度でしかなかった。

取捨選択

それにより気づいたのは世の中との乖離だった、別にそれでも構わないが、世の中で起きているある程度以上の重要な出来事くらいは知っていてもいい、そしてテレビニュースを見なくなり聞かなくなったので、世の中のニュースを確認するのは自分から能動的に行動するしかないとも思った。私は新聞を取っていないので図書館などの読める場所にゆくか、若しくはインターネットなどでの情報収集ということになる。以前はごくたまに図書館に行ったついでに新聞も読んだりもしていた、それよりもリラックスも兼ねて飲食店に行き新聞を読むこともあった。そういう行動があったとしても、私の生活習慣からすれば通常ではない、だから結果的に選択肢はインターネットになってしまう。

インターネットの場合はテレビのニュースの配信、新聞社や通信社の配信も含め情報ソースの選択肢はいくらでもあるし、その人が発信さえしていれば個々人の考えに直に触れることも可能だ。私が利用するものは既存のメディアがネット展開をしているものも含めて、さまざまなものを選んでいると思っている。そこで感じたのは、さまざまなニュースをその時々で得ているが、ひとつのニュースでもメディアによってとらえ方が違う。それは以前から新聞でも大々的な一面の記事が五大紙で同じだとしても、その大見出しや記事の方向性や解釈、内容には大きな差があったりした。それは過去から続いていることだ。

恣意的曲解

今回なんとなくそういうことを思い出したのは、今年の春に静岡県知事選があったときのこと、その応援演説で当時の上川陽子外務大臣の"うまずして何が女性でしょうか"という発言が問題となり、それが"出産しないと女性ではない"と解釈され、批判を招き、上川氏は発言を撤回し本来の意図を説明したということだ。今書いていても読んでみてもおかしいと思ってしまう。この切り抜きだけでの部分にもそう感じる。当時も激しい違和感を感じ、少し調べたりもしたが、ある程度の騒動になったようなので多分テレビなどでも取り上げられているのだろう。ということは割とメジャーな話なのかもしれない。

これだけを見て思うのはまず、うまずしてというひらがなで書かれている部分についてだ。そのひらがなで書かれているということに最初に違和感を感じた。その部分がなぜひらがなで書かれているのかという疑問を思考すれば、前後の言葉、全体として本来の意味をぼかしているのではないだろうかと思えた。なぜそう思えたのかというのは単に漢字が使われていないというのもあるが、それ以前にいくら不用意な政治家がいるとしても、女性の当時現職大臣がわざわざ"出産しないと女性ではない"と解釈されるようなことを不用意に発言するとは思えなかったからだ。この記事を伝えたのは共同通信らしく、これはどうみても意図的なものだと思える。なぜそう思うのか。

当時の川上外務大臣の静岡県知事選応援のための演説本来の発言は、"ようやく決断をしていただきました。大きな、大きな命を預かる仕事であります。今、一歩を踏み出していただいたこの方(推薦候補)を私たち女性が"うまずして何が女性でしょうか""、である。これを読むだけで意図は完全に伝わる。これは明らかに私たち女性が生むのは、この候補者を県知事として生み出すということであり、意図は明白だろう。生まずしてと書くべきところを、わざわざ産まずしてでもなく、ひらがなのうまずしてとする報道、そこにも明確な意図は見えている。火をつけたかったのだろうし、それは成功したということになる。

意図的な報道を指摘され、共同通信は記事を多少修正したようだが、英語版の記事はchildbirth(出産)と書かれているようだ。先に書いたように、ひとつの事象や事件について五大紙の見出しが違っていたり、解釈が違うのはありうることだ、しかし、この時のような切り取り報道とも言えぬ、ある意味意図的な曲解報道がされている事実、しかもそれを共同通信社という国内外にニュースを配信する会社の記者がやっているということに怒りを感じる。日本語が理解できるのなら日本人はもちろん、外国人でも元の発言を知れば、知事を生み出そうという応援演説における檄であると分かるだろう。それをこういう形で報道するというのは、よほどの日本語ができない人間か、それとも意図的に貶める意思があるということだ。

真っ裸のことば

もうこれ以上は掘り下げたくもないが、いわゆる五大紙においてもこのニュースの取り上げ方は違い、ちゃんと川上氏の意図を伝え、齟齬などではなく意図的な曲解ではないかと警鐘を鳴らした産経新聞のようなものもある。他は分かっているのだろうに、上川氏の女性に対する不用意な発言として批判的に取り上げ、差別や偏見を助長するなどとしたり、考え方が古いなど、発言そのものが不用意だとしている。それらを読む度に日本語の意味や、言葉の終わりを感じてしまう。お先真っ暗のように感じてしまうのだ。"ようやく決断をしていただきました。大きな、大きな命を預かる仕事であります。今、一歩を踏み出していただいたこの方(推薦候補)を私たち女性が"うまずして何が女性でしょうか""の中でうまずしてだけが真っ裸なのだ。そこに気づかない人がいるのだろうか。

ノーダンス

テレビを見たり新聞を見たりしないで自分から能動的にニュースを求める場合、自分が好むものばかりを優先して選んでしまい、一種のエコーチェンバーのような場所に止まって、もっと広範囲のものに目を向けることができなくなるのではないかと不安視していた。しかし現時点ではそういうことはなく、自分の考えに似たような意見の情報も、正反対の情報も同じように入ってくる。それはそれほどニュースを求めていないというのもあるのかもしれない。ただ目の前に落ちていた新しいニュースを拾うような感覚だ。そして興味があれば賛否含め調べてみればいい。自分を自分自身の思うニュートラルに保つことはできるのだろうか、ニュートラルなんてありはしないと思うけど、情報に踊らされて自分を見失いたくはない。そういうことは今も思っている。


素直

人はひとりと分かっているのに、現実的にはそれじゃ足りなくて。それとこれとは別のレイヤ、分けられているもの。正当化の産物ではなく、誰でも裸になってみれば分かるのだろう。どうしても欲しいわけじゃない、しかし経験すれば比類することのできない大きさを感じ、素直になってしまう。自分がすべてだが、それ以外のものと摩擦を起こさないと感じる力は減退してゆく。


笑いながら聞く

ロックやポップスだけじゃなくて、オーケストラやビッグバンドや吹奏楽、それらも同様にわたしを高揚させるものだ。ルロイアンダーソン氏の音楽がオーケストラなのか、ビッグバンドなのか、吹奏楽なのか考えてみた。それはアレンジ次第でどのようにも変化するもので、多分にポップスの要素が詰まっている。要するに楽しいのだ。そのことを思い、笑いながら音楽を聞いた。


夜明け

悲しいことが多すぎたら、破綻してしまう。静寂の中どこにでも存在するものを収集することで、ひとつの太い幹を作ろうとしている。こころを溶かし、肉体を焦がせた後には思った以上の無のような感覚に襲われた。そこに生まれるひかり、それを探しとらえる。厳かでもやぶれかぶれでもなく淡々としていて、いつの日か来る夜明けを待つ。




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