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28 「強くなる」ということは「鈍くなる」ということなのか? 強さと弱さの狭間で考える

「強さ」とは一体何でしょうか?多くの人は、人生の中で「もっと強くなりたい」と感じたり、逆境に立ち向かうために「強さ」が必要だと思ったりするかもしれません。しかし、時に「強くなること」は、感じやすい心を鈍らせることと同義ではないかと感じることがあります。
困難な状況に置かれると、私たちは「気にしないこと」や「慣れること」が「強さ」だとされる風潮を感じます。ですが、本当にそれが「強さ」なのでしょうか?「慣れること」や「鈍くなること」が、果たして良いことなのか、少し立ち止まって考えてみたくなりました。

「慣れること」の光と影


確かに、人は「慣れる」ことで精神的な負担を軽減できます。新しい環境や厳しい状況も、何度か経験すれば慣れて、楽になることもあります。しかし、この「慣れる」ということには、良いことも悪いことも、無意識に受け入れてしまうリスクがあります。例えば、不公平や不正が日常的に起こる状況に身を置いた場合、私たちは次第に「それが普通なのだ」と考え始めてしまうかもしれません。

一見「鈍くなる」ことは自分を守る手段のように見えますが、同時に私たちの感じる力を失わせてしまう危険もあるのです。

「敏感だから弱い」という誤解


敏感に物事を感じ取り、違和感を抱きやすい人は、周囲から「弱い」と思われることがあるかもしれません。しかし、実はその敏感さこそが、本来の自分や正しい価値観を守るための鍵になるのではないでしょうか。敏感であるということは、必ずしも弱さを意味するものではありません。

敏感であるがゆえに、周囲の状況に反応しやすく、感情が揺さぶられることもあるでしょう。その結果として、他人が流してしまうようなことに苦しさを感じやすくなることもあります。しかし、それは「弱い」からではなく、むしろ正義や自分らしさを大切にしているからこそなのです。

おかしなことに反応する人が生きづらい現実


今の社会では、周囲が「問題ない」と受け流すようなことにも、敏感な人が反応してしまうことで生きづらさを感じる場面があります。理不尽なことや不正に「違和感」を感じる人が、その違和感を無視せずに行動を起こしたり発言をしたりすることで、逆に苦しい思いをしてしまうことが多いのではないでしょうか。

その結果、「慣れる」ことや「鈍くなる」ことが、社会の中で生きやすくなる手段とされることもあります。しかし、それによって本来大切にすべき感覚を失ってしまうのは残念なことです。

「正しさ」を見失わないために


私たちは、鈍感になることが正しい生き方ではないことを忘れないようにしたいものです。確かに、過度に敏感でいることは、時に自分を疲弊させてしまうかもしれません。それでも、「強くなること」と「感じなくなること」を同一視するのではなく、敏感さを活かして自分らしく生きることの価値を大切にしたいです。

鈍くなるのではなく、敏感さをもって生きるための力。それこそが、私たちにとって本当の「強さ」なのかもしれません。強さと弱さ、その狭間に立つとき、自分が何を大切にしたいのか、見つめ直してみることが、今の時代には必要なのではないでしょうか。

人それぞれに「強さ」と「弱さ」の形があり、それは決して一面的なものではありません。これからも、鈍くなるのではなく敏感さを活かしつつ、正しさを見失わずに生きる方法を模索していきたいものです。

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