強いだけの人も、弱いだけの人もいない
強いねと言われることがある。
弱いねと言われることがある。「弱い」は違った表現でされることが多いけれど。「繊細だね」とか、そんな感じだ。
そんなことを言われたとき。言葉は相手を褒めているようで、「自分とは違う」と切り離す言葉のようだと感じることがある。
「自分にはできない」という相手を羨む思いは、どうしてもにじみ出てしまう。そこで喜んでお礼を言うことも、相手を気遣うことも、よく見極めないといけない状況が、とても難しい。
だけど、強いだけの人も弱いだけの人もいない。
いつも強気なアスリートが敗戦の後に涙するとき、親近感を持つことはあるだろう。あんなに競技中は勇ましく振舞っていたのに、やっぱり悔しい思いを感じるんだな、自分とも近いものがあるんだなと安心する。
線香花火は弱くて儚いかもしれない。でも風の中に燃えながら形を変え続ける姿に強さを感じる。ごうごうと燃え続ける手元の小さくて大きな火を見つめ続ける、そんなときどんなことを思うだろうか。
「強さ」と「弱さ」という見かたからしか見れないと、内に隠れているものに気づけないことがある。
どうしても「点」での見かたになってしまう関わり合いもある。関係の点を繋げて線にしていくことは、誰とでもできるわけじゃない。でも、今の自分は「点」からの見かたをしているということに自覚的になれているかどうかが重要だ、と思う。
自分の視点が全てではない、なんてよく言われるけれど、他人の思考を想像するのは難しい。まず目の前の人を、「自分の視点から見ている」と思い出すことから広がるのかもしれない。
「強い・弱い」のような言葉が悪いわけではもちろんない。ただ、自分の言葉に自覚的になったとき、はじめて自分なりの言葉が出てくることもあるんじゃないかと思う。「〜で強いですね」って理由を添えるのでもいい。「強い」という言葉自体が変わるかもしれない。
その言葉は、相手と自分を分断せずに伝えられていますか。
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