[秋ピリカ] 紙と鉛筆①
テーマは「紙」。
ブログサイトの文学賞のテーマを見ながら構想を練る。さて、なにを書こうか?
自慢じゃないが、何度か同様のコンテストに応募したことがある。しかし、箸にも棒にもひっかかったことはない。負け惜しみかもしれないが(いや、負け惜しみに間違いないのだが)、誰もが知る伝統的な文学賞だって、客観的に作品の優劣なんて決められるのだろうか?
審査員の名前を見る。もうすでにこの時点で終わっている。ふだん好んで読んでいる審査員の作品なんて1つもない。かといって、審査員好みの作品を書いて賞をもらったって、嬉しくともなんともない。
だが、と私は思い直す。賞をとることがなくても、応募すればふだん書いている自分の作品より多く読まれるチャンスはある。一般の文学賞への応募とは違って、ブログサイトで行われる文学賞は、他の読者も読むことができる。実数はわからないが「いいね」の多さは、ある程度、人気の尺度にはなる。グランプリ受賞作より「いいね」が多い作品を書くことは可能である。
私は文学賞をとることは諦めて(敵前逃亡と言われるかもしれないが)、内容はともかく「如何に多くの人に読まれるのか?」ということに意識をフォーカスさせた。賞をとることではなく、グランプリをとる作品よりも、一人でも多くの人に読まれるにはどうしたら良いのかと。
目標は明確になった。賞をとらずして、一番読まれる作品を書くこと。この一点である。我ながら嫌なヤツだと思う。しかし、チャレンジする価値はあるだろう。
私は作品を書く前に、如何にして審査員から深く嫌われるかについて考えた。
まず、ふだん審査員の書く作品には、決して「いいね」を押さないこと。審査員の作品を徹底的に無視すること。どんなにいいなと思っても、フォローはしない、「いいね」は押さない。まかり間違っても、審査員の書く作品を褒め称えないこと。
こういった努力をすれば、間違っても私の作品が選ばれることはないだろう。
そもそも文学の本質は、アンチ権力である。権力者のやること為すことすべてが悪いことだとは限らないが、「なんでも反対!」のシュプレヒコールを浴びせておいたほうがいいのだ。少しでも権力者に迎合したら、その時点で私の輝きはすべて失われてしまうだろう。
権力者は決まって言う。
「私は常に公平無私な態度で作品を審査する」と。
だが、それは不可能なこと。公平無私を貫くことを表明すれば、自らの言葉にウソがあると思われないように、あえて普段フォローしている人の作品を見ないようにしたり、「いいね」の多い作品をあえて外しておこうという心が芽生えてくるものだ。
あるいは、自分自身が本当に優れていると思う作品ではなく、他の審査員が推しそうな作品はどれかと考え始めるのが人間というものだろう。
私はここまで一気に紙にしたためた。この文章を打ち込んで応募するかどうかは未定である。
(1,197文字)
言うまでもなく、すべてフィクションです。
しかしながら、たとえば審査員の中に、私のことをブロックしている人がいたとしても、ぜんぜん不思議なことではありません。