透徹した人間観察 | ホッブズ「リヴァイアサン」素描
ホッブズ(著)「リヴァイアサン」。
「万人の万人に対する戦い」(Bellum ominium contra omnes)という国家や法のない「自然状態」を表したとされる言葉で有名である。
思想的に簡潔に言うとそういうことなのかもしれないが、今回の記事では、ホッブズの「人間観察」について「リヴァイアサン」の断片を読んでみたい。
ホッブズは、なかなかの毒舌家であるが、「リヴァイアサン」は、核心をついている言葉の宝庫だ。「なるほど、そう言われてみればそうだね」と思うことが多い。あなたはどう思うだろうか?
※ テキストとして、ホッブズ(著)[水田洋(訳)]「リヴァイアサン1」(岩波文庫)を用いる(ヘッダーの写真)。翻訳なので、多少読みづらい箇所があるが、意味は分かると思う。
引用と私の意見・考えを分けて書いた。「🙄」は私の解釈。
<<軽視>>(contempt)
われわれが意欲も憎悪もしないものごとを、われわれは「軽視する」といわれる。軽視は、あるものごとの行為に抵抗する、心の不動あるいは不従順にほかならず、その心が他のもっと有力な緒対象によって、すでに別様にうごかされていることから、あるいは、それらについての経験の欠如から、生じるのである。
(前掲書pp.99-100)
🙄「軽視する」という言葉はふだん、「物事を軽く考えたり、バカにしたりすること」あるいは「気にしないこと」という意味合いで使っている。
ホッブズによれば、「軽視」とは、「不従順」である。
その原因は
①もっと別に魅力を感じる考えを持っていること
あるいは
②自分自身の経験が不足していること
である。
<<善と悪>>
だれかの欲求または意欲の対象は、どんなものであっても、それがかれ自身としては「善」とよぶものである。そして、かれの憎悪と嫌悪の対象は、「悪」であり、かれの軽視の対象は、「つまらない」「とるにたりない」ものである。すなわち、これらの善、悪、軽視すべきという語は、つねに、それらを使用する人格との関係において使用されるのであって、単純かつ絶対的にそうあるものはなく、対象自体の本性からひきだされる、善悪についての共通の規則もない。
(前掲書p100)
🙄
「善と悪」には、絶対的な意味があるわけではなく、万人に共通する規則はない。人格と人格との関係において生じるものである。
「自分とは関係ないよ、関心がないよ」と思えば、それは「悪」である。もっと言えば、自分の価値観と合う他人の意見は「善」であり、そうでなければ「悪」だということ。
個人的に悪だと思っていることは、絶対的な悪ではなく、単なる「無知」に起因するか、あるいは、他の意見への「固執」が原因である。
<<愛の情念>>(Passion of Love)
単独の人への「愛」が、単独に愛されたいという意欲をともなえば、「愛の情念」とよばれる。
同一のものが、その愛が相互的ではないという恐怖をともなえば、嫉妬(Jealousie)*とよばれる。
*ママ
(前掲書p105)
🙄
好きな人に対して「わたしだけを愛して❕」という気持ちがあれば、それは「愛の情念」をもっているということ。
「好きな人から、わたしは愛されていない❕片想いじゃん❕」と思えば、それは「嫉妬、ジェラシー😒🔥」。そして嫉妬心には「恐怖」が含まれている。
<<得意>>
<<うぬぼれ>>
人が自分の力と能力について造影することから生じる「たのしみ」は、「得意」とよばれる精神の高揚である。
それは、もしかれ自身の以前の緒行為についての経験にもとづいているならば、「自信」とおなじであるが、もしそれが、他の人びとの追従にもとづいたり、あるいは、それの緒帰結のよろこびのために、かれ自身によって想定されたにすぎなかったりすれば、「うぬぼれ」(むなしい得意)とよばれる。
(前掲書p107)
🙄
「わたしって、こんなに○○が上手なの😆」と言ったとき、テンションが上がってワクワクするならば、それを「得意」という。実績をともなう得意は、「自信」と同じ。
しかし、ほかの人から「キミさぁ、○○がうまいよね🧔」と言われて「そうなんです😆」と答えたに過ぎないならば、それは「うぬぼれ」。あるいは、できもしないのに「出来る!」と思うのも「うぬぼれ」。
<<冷酷>>(Cruelty)
他の人びとの災厄について、「軽視」したりわずかしか感じなかったりするのは、人びとが「冷酷」とよぶものであり、自分自身の運命の安全性からでてくる。
すなわち、だれでも他の人びとの大きな被害に快楽を感じることは、自分自身の終末がそれとちがうのでなければ、私は可能だとおもわない。
(前掲書p109)
🙄
これは耳が痛い。私は間違いなく「冷酷な人間」である。
仮に、どこかの国が隣り合わせの大国の侵略を受けたとする。もちろん最初の頃は「許しがたい。早く正常な状態にもどってほしい」と思ったものだが、戦いが激化しているにもかかわらず、私は関心を持たなくなってきている。
私の国は戦争状態にならないだろう、という甘い考えが私にはある。「明日、攻められて殺されることはない」という安心感をもつほど、私は「冷酷な人間」なのだ。
<<競争心>>(Emulation)
<<羨望>>(Envy)
競争相手が富、名誉、あるいは他の利益において成功したことに対する、「悲歎」は、もしそれが、われわれ自身の緒能力を、かれと対等あるいはそれ以上につとめようという努力とむすびついているならば、「競争心」とよばれるが、競争相手をおしのけようとか、妨害しようとかいう努力とむすびつくならば、「羨望」とよばれる。
(前掲書p109)
🙄
ライバルが大成功して激しくなげき悲しんで、足をひっぱってやろう!と思ったら、それは「羨望」である。
ライバルが大成功して、あなたが嘆き悲しんだとしても、彼(彼女)に追いつき、追い越そうと思う気持ちがあれば、それは「競争心」がある、ということ。
私のライバルの成功は、私に「悲歎」をもたらすということは、「競争心」であっても「羨望」であっても同じ。
なかなか痛烈な人間観察だと思う。
心の底からライバルの成功を祝うことができるのならば、本当のライバルとは言えないのだろう。
自分が負けて、ライバルが勝ったことを喜べるお人好しはいない。
まとめ
ホッブズの「リヴァイアサン」。
特に岩波文庫でいうと「第一分冊」に収録されている箇所がとても面白い。ちょっと翻訳が読みにくいけれど😔。
「光文社古典新訳文庫」(↑)のほうが読みやすいのだろうか?
英語のほうが分かりやすいだろうか?
いずれにせよ、全文を読むことはたいへん😖💦。岩波文庫で全4冊だが、私は全部は読んでいない。第1分冊を読んだだけである(残り3冊もいちおう持ってはいるが、本棚に並べてあるだけ)。
でも、最初の部分(一冊目)は面白いので、オススメしたい。
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記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします