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小説の基本ルール



 倉橋由美子あたりまえのこと』(朝日新聞社)を読んでいた。
 この本は小説に関するエッセイ集。タイトルが「あたりまえのこと」となっているだけあって、読んでみれば、あたりまえのことが書いてある。
 エッセイとは言っても、とてもロジカルに書かれているので、内容的には学術論文に近い。

 数ページのエッセイが50くらい掲載されていて、どれも読んでいて楽しいのだが、この記事では「小説の基本ルール」というエッセイを取り上げる。



小説の基本ルール


 倉橋は小説には何をどう書いてもよいとした上で、それでも基本ルールはあると言う。
 それは「『自分のこと』を書かない」というルール

 もちろん、小説には作者の思いが込められるものだが、ここで言う「自分のこと書かない」とは、作中に登場する『私』は、作者本人を意味する『私』であってはならないということ。

 小説の読者が小説に出てくる『私』イコール『作者』と考えるのは仕方ないが、基本的に、小説の中の『私』は作者自身とは別の人物を考えるべきだ、というのが小説のルールだ。

 このルールについては、多くの人が知っていると思うが、なぜ小説の中の『私』と作者本人が同一人物ではいけないのか、という理由はなんでしょう?

 私なら、「日記になってしまう」「エッセイになってしまう」「自伝になってしまう」…と理由を挙げるところだが、倉橋は次のように語っている。


 素顔で自分のことを語ってはなぜ小説にならないのか。それは何になるよりも前に自慢話になってしまうからである。このこともわからない人にはついにわからない。自己批判をしているつもりの人もある。弁解をしているだけだと思っている人もある。しかし自己批判にしても自己嫌悪の表明にしても、また弁解にしても、自分のことを語ればそれは所詮自慢話でしかないのである。自慢話が大目に見られる場合は限られていて、それは普通公衆の面前ではしないことになっている。同じことは自分の親兄弟の話についても言える。自分の母が実は娼婦だったという類の打ち明け話も、その本質が自慢話である点において自分の母が美人であったという話と変わるところはない。そういう話を純文学と称して力を込めて書かれると、他人は挨拶に窮するのである。

前掲書、pp99-100

 私はこの文を読んで「あぁ、なるほどね」と思ったのですが、わからない人にはわからないのだろうな、とも思う。

 この本で触れられているのは、あくまでも小説論なのだが、SNSの小説や記事についても似たようなところはある。

 「読みたくないな」と思う記事も小説も、仮面をつけない「私」が全面に出ている。嘘をつけ、というのとも違う。主観的なことを主観的なまま押し出すと読者はひいてしまう。

 客観性というフィルターを通していない文章は、激しいようでありながら、実は相手には届きづらいものだ。抑制的に書いても、真の読者は補ってくれる。「私」「私」「私」という文章は、猛烈な臭気を伴う。簡単に言えば、ワンクッション挟んだほうが、作者の主張は読者には届きやすいということだろう。


 倉橋のエッセイは、小説を書く立場からの物言いだが、小説に登場する「私」とその作者とは異なるものだ、というのはお約束事。
 読者には、作品中の「私」にその作者の心を読みこもうとする自由はある。しかし、感想文を書いたり、コメントを残すときには作者とその作品中の「私」は別物である、ということは肝に銘じておきたい。

 いままでにコメント欄で不愉快な思いをしたことを思い出すと、両者の区別が出来ていない人がほとんどである。自分の作品のことだけを言っているわけではない。他の人のコメント欄を覗いてみても、両者の区別が出来ていない人が多い。そういうコメント欄を見ると、「返事を返すのが大変ですね」と思ったりする。

 一編の小説を読んで、「大変な経験をされましたね」みたいなコメントを残す人のことを念頭においてこの記事を書きました。小説の中では、人を殺した経験がなくても人を殺すことだってあるでしょう?
 作品の「私」と作者としての「私」を混同する人は、小説を読んで警察に連絡するかもしれない。そんな奴はおらんやろ?、と思いつつ、そういうことをしでかしそうな予備軍が多いように思う。杞憂ならそれでいいのだが。。。
 
 


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山根あきら | 妄想哲学者
記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします

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