短編小説 | 恋かもしれない
(1)
二人の息子がようやく大学を卒業し、無事就職することができた。いろいろなトラブルはあったけれど、母親として、最低限の義務は果たすことができたかな、と思う。
夫とは相変わらず、冷たい関係が続いていた。私はもう、母親でも女でもないのかもしれない。心身ともに。
(2)
最近、女性特有のひと月に一度の体の変調がなくなった。その代わり、継続的に体の調子がよくない。更年期なのだろう。
それでも、夫は家事など全くできないし、私は専業主婦だから、基本的に私が買い物に出掛けざるを得ない。自転車を走らせ、公園を抜けて、近所のスーパーに買い物に出掛けるのが、私の日課だ。
子供がいい子に育ってくれただけで、幸せに思わなくてはならないのかもしれない。しかし、もっと違う人生があったのではないか?
そんなとりとめのないことを考える日々が続いていた。
(3)
そんな日々が続いて、これでもう死んでもいい、という考えが頭をかすめた頃、私は出会ってしまった。
いつものように、公園を通ってスーパーから自宅へ帰ろうとしていたとき、急に飛び出してきた子供をよけようとして転んでしまった。
「いてて」。大きな怪我ではなかったが、手の甲に血がにじんでいた。
「大丈夫ですか?」
(4)
そう優しく声をかけてくれたのは、三十路くらいの青年だった。
「大丈夫です」と私は転んでしまったことを少し恥ずかしく思いながら答えた。
「手、血がにじんでいますね。ちょっと洗いましょうか?」
散乱した荷物を、自転車のかごに拾い集めてくれた。
「あそこで手を洗いましょう」
彼は、指さした水道まで、自転車を押しながら、傷ついた私の手をそっと庇うように、導いてくれた。
「もう、大丈夫ですから」
見ず知らずの男性からこんなにも親切にされたのは久しぶりのことだった。
(5)
その夜、私は上の空の状態だった。
「もしかして、いい年して恋なのかしら。私みたいなオバサンに親切にしてくれる青年がいるなんて。でも、あんなに優しい方には、きっと素敵な彼女がいるんでしょうね。お名前くらい、お聞きしておけばよかったわね」
目の前で鼾をかいて寝ている夫を横目で見ながら、私はひとり、ときめいていた。
(6)
それから暫くして、同じ公園を通ったとき「こんにちは!」と快活なあいさつの声を聞いた。
「えっ、まさか」とは思ったが、間違いない、あのときの彼が目の前に立っていた。
「その節は、たいへんお世話になりました」
「やっぱりあのときの方でしたか?お元気そうでなによりです。最近ここに赴任してきたんですよ」
「そうでしたか」
とそのとき、不意に下腹部に痛みが走った。私はその場にしゃがみこんでしまった。
「大丈夫ですか?」青年は心配そうに尋ねた。また、迷惑をかける訳にはいかない。私は我慢しながら、作り笑顔を浮かべた。
「この近所ですから、ご心配なく」
(8)
何とか私は家にたどりついた。
少し汗ばんでしまった。少しシャワーを浴びてから横になろう。
下着を脱いで、浴室に入ろうとしたとき、パンティーに赤い染みがついていた。まさか、とは思ったが、生理がきたようだ。
恋をすると、生理が復活すると聞いたことがある。体調もさっきより、だいぶよくなってきた。今日は夫の帰りが遅い。私は軽くシャワーを浴びて、その後、ソファーでうたた寝した。
(9)
四、五日の間、少し出血が続いたが、その後は嘘のようにおさまった。やっぱり生理だったようだ。こんなこともあるのね。私は楽観的に考えていた。また、彼にいつか会うことができるかしら。
(10)
それから、さらに10日が過ぎた。また、いつもの公園で、彼に出会ってしまった。
今日は、初めて勇気をもって私から声をかけよう。
「こんにちは!」と言おうとしたとき、どうやら私は気を失ってしまったようだ。
気がついたときには、私は病院のベッドに寝ていた。目を覚ますと、椅子に腰をかけた、不機嫌そうな夫がいた。
「気がついたようだね」夫は凄むような声で言った。
「お前の近くにいた男が、救急車を呼んだようだ。病院に着くと、すぐに帰ってしまったらしい。不倫相手か?」
「いいえ、違います。ただ、いつも公園を通るとき、すれ違っていた方です」
「まぁ、いいよ。でも、バチが当たったんだな。君は子宮筋腫だそうだ。幸い、発見が早かったから、取り除けば、特に問題はないようだ」
私は泣いた。
せっかく女になれたと思っていたのに...。また、女でなくなってしまうのね...。でも、彼に会えて、よかったのかもしれない。再び彼に会える日は来るのだろうか?
おしまい
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トーマス・マンの短編小説「欺かれた女」をモチーフにして書きました。
⚠️この記事は「再掲」です。
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記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします