創作大賞中間発表
創作大賞の中間発表があった。
選ばれた方おめでとうございます、という言葉が並んでいるが、私はそういう気持ちには全くなれない。
当たり前だ。もしかしたら自分の名前があるかな?、と思いながら目を通したのだから。
選ばれた作品の中には「素晴らしいな」と思う作品もあるが、「何が面白いの?」という作品もある。批判を覚悟で言えば、私の「漂着ちゃん」のほうが上だと思うような駄作も含まれている。
「えっ、こんなつまらないものが選ばれて、あっちが落とされてるの?」と、一読者として思う人も多いのではないか?
わたしは、一生懸命に「漂着ちゃん」を書いたから、選ばれた他人に対して、たとえそれがフォロワーの一人だとしても、手放しで喜ぶ気持ちはない。「よかったですね」とも言いたくない。やっぱり悔しいから。
まぁ、中間発表で選ばれて、最終的に落とされる人のほうがが多いから、最初に落ちたほうが「また新しいものを書こう!」っていう気に早くなれるから、これでよかったのかもしれない。
中間発表通過は、何の肩書きにもならないから。中間発表をパスして最終的に落とされるほうが、最初に落とされるよりもショックが大きいのではないか?
こう書くと「サワーグレープか?」と我ながら思うけれど、文学なんて、人それぞれ、評価の仕方も違えば、何を面白いかと思うのかも違う。良し悪しを判定するのは難しい。
創作大賞で選ばれた作品だとしても、「読んでみよう!」となるとは限らない。
まだ読んだことのない不朽の名作と、創作大賞に選ばれた作品が並んでいたら、私は「不朽の名作」を買う。長い風雪を耐えてきた名著のほうが読む価値があると思ってしまうから。
私は選ばれなかったから、もう誰が選ばれようがどうでもいい!、というのが正直な気持ちだ。どれを推そうが、どれをけなそうが、私の言葉は評価に影響を与えないから、口にするだけむなしい。
ちょっと関係ない話を強引に、創作大賞に引き付けていえば、例えば芥川賞。
村上春樹は芥川賞をとっていない。
太宰治も芥川賞をとっていない。
しかし、芥川賞受賞者の中には、村上春樹を模範とする人や、太宰治を崇拝するかのように1番好きな作家として挙げる人が多い。
ごく平凡な芥川賞作家と太宰治の本が並んでいたら、私は太宰の本を買いたい。
石川達三と中島敦なら、落とされた中島敦のほうが私はすきだ。
創作大賞に選ばれても、選ばれなくても、自分の内心で、応募する前よりも応募した後のほうが何か手応えを感じたのなら、それだけでいい。
他人の評価には、その人の趣味・好みが含まれるし、作品の中身より「誰が書いたのか」という名前で決まる要素もあるから。
客観的な評価基準は、文学にはあるようでありつつ、何もないから。