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短編小説 | 曲の名は...
https://youtu.be/0xOD1rhDlgo?si=OSVwauskigjf0ew8
すこし換気でもしようかと、窓を開けたとき、ピアノの音色が聞こえてきた。どことなく切ない。しかし力強くもあった。
「あぁ、カナデさん。がんばっているんだな」
カナデさんは去年、桜の花が咲き乱れる頃にこの近所に引っ越してきた。
「カナデと申します。大学を卒業して、ここでピアノ教室を開くことにしました。なかなかグランド・ピアノを置けるような物件がなくて。音がうるさいかもしれませんが、よろしくお願いいたします」
初めて会ったカナデさんは、小さいながらもハキハキとした口調で言った。それ以来、カナデさんのピアノを聞くのが、ささやかな楽しみとなっていた。
私は音楽には詳しくないが、毎日ように聞こえてくるカナデさんのピアノの音色には、情熱だけでなく切なさが交じっているかのように思っていた。
晩秋を過ぎて、冷え込む日が多くなってから窓を閉じたままにすることが増えた。だから、今日、換気のために窓を開けた時に、久しぶりにカナデさんのピアノを聞いたのだ。
ふだん、カナデさんと近所ですれ違うとき、私が聞いたのがなんという曲なのかといちいち尋ねることはなかった。しかし今聞いた曲はなんという曲なのかと気になってしまった。カナデさんのピアノの練習が終わったら、曲名を尋ねてみようか?
カナデさんの練習は、それから小1時間経ったころに終わったらしい。ピアノの音が鳴りやんだ。普段はたまに出会った時に挨拶を交わす程度で、長い話などする機会はなかった。しかし、今日の演奏を聞いたとき、美しい音色には違いないが、とても切ない気持ちを感じさせるものがあった。
「もしかしたら、カナデさんは、何か心の中に人知れず抱えていることがあるのかもしれない」
自分でもなぜこんな気持ちになったのかわからなかった。けれども、きっと何かあるに違いないという確信にも近い予感があった。
「お前、おかしいぞ」という内心の声が聞こえたが、気がついた時には、私はコートを羽織って、カナデさんのピアノ教室のドアの前に立っていた。
呼び鈴を押すと、すぐに部屋の中から足音が聞こえて、ドアが開いた。
「あら、川内さん。どうされましたか?」
カナデさんは少し驚いた様子だったが、すぐにいつものように、明るい笑顔を見せた。
「ちょうど良かったです。おしるこを作り過ぎてしまって。よろしかったら、召しあがりませんか?」
曲名を尋ねたらすぐに帰ろうと思っていた。一人暮らしの若い女性の部屋に入ることに一瞬躊躇したからだ。けれども、私はカナデさんの申し出に甘えることにした。
「川内さん、どうぞこちらへ。ちょうど誰かとお話をしたいな、と思っていたところなんです」
私は案内されたこたつに腰をおろした。
「今、おしるこを温めてきますね」
ほどなくして、おしるこがこたつの上に置かれた。甘い香りが部屋に漂った。
「あの、さきほど弾いていた曲は何でしょうか?」少し躊躇しながら、私は尋ねてみた。カナデさんは「ははは」と笑った。
「曲名はありません。私がなんとなく作曲したものです。ショパンのノクターンとラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を合わせたような感じです。何を言ってるか、わからないですよね、ふふふ」
確かにカナデさんが何を言っているのか私には理解できなかった。ただ、少し悲しい音色だったという私の感覚は間違いないとは思っていたけれども。
カナデさんは続けた。
「ノクターンというのは、夜想曲のことなんですけどね。夜に想うことを音楽にしたものなんです」
「カナデさんは、夜にどのようなことを想っていたのですか?聞いてもよろしいでしょうか?私には、情熱的でありつつも、少し悲しい音楽に聞こえました」
私がそう言うと、カナデさんは少し泣きそうな表情を見せた。少し考え込んでいるようにも見えた。
「川内さん。ありがとうございます。川内さんの解釈で合っていると思います」
カナデさんは泣いているようにも、笑っているようにも見える表情で言った。
「この曲には、ちょっと切ない感じがするという御指摘は正しいです。 私、この曲には思い入れがあるのです」
カナデさんは、自分の気持ちを正確に表す言葉を探すようにゆっくりと語り続けた。
「私には、忘れられない人がいます。彼のことを思うたびに、この曲を弾くんです」
カナデさんの瞳は潤んでいた。今にもあふれそうな涙を私は見た。
「私には高校の頃に出会った彼氏がいました。私が大学に入ってからは、夏休みや冬休みのような、長い休みがあるときにデートするくらいでしたが、私の演奏会には必ず駆けつけてくれました。最後に会ったのは、去年の夏でした。けれども、夏の終わりに交通事故で亡くなってしまいました。この曲は、去年の秋に、鎮魂の気持ちを込めて作りました。その意味で、ノクターンであるとともに、レクイエムである、と言ってもいいかもしれません」
私は、カナデさんの言葉をただ聞いているしかなかった。私の感じた切なさはもっともっと重いものだったのだ。
「彼は音楽を学んだことはありませんでした。けれども、感受性があり、良い耳の持ち主でした。『今日はとてもよかった』とか、『少し緊張してた?』とか。いつも的確な感想を私に教えてくれました。ピアノを弾くことは、私にとって、大きな心の支えなんです。というか、彼のためにも弾かざるを得ないのです。これからも、彼に私の想いが届くように、ピアノを弾き続けたいと思っています」
私にはなんと言ってよいのかわからなかった。
しばらく沈黙の時間が続いた。
「あ、ごめんなさい。おしるこ、冷めちゃいましたね」
「いえ、このままいただきます。曲に込めた想いを聞かせていただき、ありがとうございました」
カナデさんの優しい言葉は、静かな冬の夜に、明るい温かい光を灯してくれた。胸がいっぱいになった。
帰り際に私に言えたのは、「ありがとうございました」の一言だけだった。
長い冬が終わり、今年も桜の季節がやってきた。ピアノ教室から、私が聞いたカナデさんの名もない名曲が聞こえることはほとんどなくなった。その代わりに、生徒たちの笑い声がたくさん聞こえてくるようになった。
~おわり~
https://youtu.be/wK6PuiQi3SQ?si=M0aam5nmeAdgIzHQ
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