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小説 | 紙と鉛筆②


前話はこちら(↓)



小説 | 紙と鉛筆②


 私は結局、ブログサイトで行われている文学賞に応募することにした。
 いつもの記事を投稿する要領と同じである。違うのは「#○○○文学賞応募」というハッシュタグを付けることだけだ。私は先日書いた1,200字程度の作品にタグをつけて投稿ボタンを押した。


 タグをたどって、他の応募作を検索してみた。
 ざっと見たところ、私よりも前に投稿されている作品が20から30件くらいあった。

 すでに私のフォロワーの作品をいくつか読んでいたが、それ以外にもこんなにもたくさんの作品が応募されているのかと知って少し驚いた。
 と同時に、「あぁ、やはりこの顔ぶれを見ると、私の作品がグランプリをとることはないだろうな」という確信は「普遍の真理」へと変わった。

 正直な感想を言おう。
 どの作品もうまくまとまっている。仮に「1200字程度の小説を書け」という入試問題が出題されて、その答案として書かれた作品としては、どの作品も合格点だろう。

 しかし、「なにが面白いのか?」「私の心に何か届いたか?」と虚心坦懐に考えてみると、ここに出されている作品はみな「良くできましたね作文」にほかならない。読み終わって「良く書けましたね」とは思うものの、感動することはなかった。もちろん、私の作品も含めてのことだが

 率直に言えば、町内運動会とか町内カラオケ大会みたいなものであり、「これこそ文学だ」と私を唸らせるような代物は1つもなかった。

 小説というものには、俳句や短歌のような文字制限はない。書いた本人が「小説だ」と言えば小説なのだろう、と思うだけである。
 私が投稿した作品に関して言えば、これは小説ではなくて、少しの虚構を交えたエッセイみたいなものだ。
 書いた本人の私でさえ、「これってエッセイだよね~」という思いがあることを否定できない。


 しかし、同じテーマを与えられて「人が何を連想したのか?」と考えることは楽しい。「へぇ~、そう来たか」と感心したり、「あぁ、これって誰でも思いつきそうなことね」なんて、くさしながら作品を読む楽しみはある。

 また、作品自体のほかにも、「あぁ、この人はあの界隈から応募があることを知ったのね」とか、「ブログサイト内の仲良しは誰と誰で…」と思い浮かべながら読む、という楽しみ方もある。このようなことは、ブログサイト文学賞ならではのことだろう。

 どこの誰が書いたのかわからない文学賞とはやはり異なる。嫌がおうでも、アイコンは目に入る。もうその瞬間に、まだ読んでいない作品でさえ「色眼鏡」をかけて見てしまう。誰でもそうだろう。

 ブログサイトを始めたごくごく初期の頃は、文学賞や句会などの賞は、作品それ自体を客観的に審査員が読み、真に誰が読んでも押しも押されもしない作品が選ばれるのだ、という幻想をもっていた。しかし、ブログ歴も3年を越えれば、それは虚像であると気がつくものだ。
 句会にしろ、文学賞にしろ、身内同士で傷を舐め合うか、あるいは、お世辞を言い合って楽しむのか。そのどちらかである。


 仮に自分が文学賞を企画することを考えてみれば、中立性を保ちつつ客観的に作品を選ぶことなど、無理な相談であることがわかる。
 自分1人の独断と偏見に陥らないように、数人の人に審査員を依頼することを想像する。
 客観的な判断をするためには、私の考え方とかけ離れている人も審査員に含めなくてはならない。しかし、自分の考え方と相容れない人に頭を下げてまで「審査員をお願いします」とはならないだろう。
 どんなにバランスのとれた人選をしようとしたって、自分と仲の良い人や考え方の近い人を選んでしまうことは、人間の性(さが)だろう。

 別にブログ文学賞に限ったことではないが、タイムを競う陸上競技や水泳とは異なり、文学の良し悪しなんて客観的に計測することはできない。それが真理だ。


…つづく


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山根あきら | 妄想哲学者
記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします