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エッセイ | 「形のないもの」にも形があるかもしれない。

中学生のとき教科書で読んだ菊池寛の「形」のことを思い出した。今ももしかしたら、掲載している教科書があるかもしれない。

短い話だから、手持ちの新潮文庫を取り出して再読してみた。やはりよくわからなかった。話の筋はわかるが、作者のメッセージが何なのかよくわからない。

(*菊池寛の短編はすきですが。)

教科書に掲載されているような物語には、「こうした方がいいですよ」的な道徳的なメッセージがあると思っているのですが(偏見?)、菊池寛の「形」には、そういったものが感じられない。
あえて言えば「実力だけでなく、形も大切ですよ」ということ?

と、「形」について考えていたら、人は形のないものに、時間を費やしていることが多いのではないか、と思い始めました。

最近、一見すると「形のないもの」が「不要不急なこと」だと言われているような気がしています。

「映画」「スポーツ観戦」「コンサート」「イベント」「集会」など。

人は形のあるものだけで生きているのだろうか?

食材、自宅、職場、だけ?

一般的に言えば、「コンテンツ」と呼ばれるようなものには、形がないように思われているがそうだろうか?

例えば、音楽。耳で聞くものだから、音自体は目に見えない。形がない。しかし、音楽という言葉を聞くと、自分が普段聞いているハードなものを想起するのではないだろうか?「iPod」、「スマホ」、「PC」、「CD」、「ラジオ」、「カーステレオ」、「ラジカセ」、「カセット」、「MD」、「レコード」、「ステレオ」、「イヤホン」、「好きな歌手」など。

人それぞれ想起するものは違えど、音楽には形があるように思える。

例えば、「ことば」にもこれが言葉だという形はない、音で聞く限りは。

「ことば」という言葉で、どんな形を思い浮かべるだろうか?

教科書、新聞、会話している相手、辞書、映像の中の人、本、雑誌、スマホの文字、PCの画面の文字?

「ことば」にも、人それぞれの形があるように思えてきます。

「形のないもの」から想起される「形のある物や人」は「不要不急」のものではなく、必要不可欠なものばかりだと思います。

なにが言いたかったのだろう?

形がないものにも、形があって大切だということかもしれません。形の定まっていない結論ですが。


⚠️この記事は、noteを始めたばかりの頃に書いた記事の再掲です。




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