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創作について | 101ページ目を書くつもりで書く。
「論文を書く時には、101ページ目を書くつもりで書くこと。」
指導教官が良く言っていた言葉だ。
若くて、野心が強い時には「画期的な論文」を書きたいという誘惑に駆られることがある。
だが、学術的な論文というものは(特に文系科目においては)、一見理系より自由度がありそうでいて、テーマを見つけることが難しいものだ。
学部レベルの卒論だったら、既存の研究をまとめるだけの「良くまとめましたね論文」でも許容される。しかし、修士論文や博士論文では、「新たな知」を書き加えることが必須だ。
学術論文と小説。どちらもテーマは自由だ。ただ両者は異なる。
小説は必ずしも既存の小説を読む必要がなく、かつ、どこで着想を得たのかということ(引用箇所)を明示することは(エピグラムなどは除く)要求されない。
学術論文の場合は、引用箇所を明示することやどこから着想を得て当該論文の帰結に至ったのかを記す必要がある。
単純化して言えば、小説の場合は1ページ目から最後のページまで、間違っていようが単なる空想だろうが、著者が思うままに書いてよい。
論文の場合は、1ページ目から100ページ目までは既存の学説のベースの上に書き、その上で最後のページに今までになかった新たな着想を書いて結ぶ。「新しい」という意味での独創性は、論文全体の1%にも満たない。
論文を書こうとしてテーマを探すとき、「なぜ多くの人が疑問に思っていることなのに、論文が書かれていないのだろう?このテーマで書いてみよう」と思うことがあるだろう。
だが、そのような場合、いざイロイロと資料を集めて考えてみると、ありきたりの結論しか出て来ない、あるいは、すでに研究し尽くされていて、もはや付け加えることがないことがほとんどである。
さんざん苦労した挙げ句の果てに得る結論が「このテーマではなにも書くことがありません」ということが多い。
このような過程は、自分自身の勉強にはなるが、論文にはならない。勉強と研究は、似て非なるものだ。
さきほど、小説と学術論文とは異なると書いた。だが、最近思うのはSNS上に現れる小説は、一読すると独自性があるように見えながら、デジャブの嵐であり、単なる「お勉強作文」が多い。おそらく大して小説を読んだことがない著者が書いたものか、あるいは、既存の小説に単なるマイナー・アレンジを加えたに過ぎないのだろう。だから、面白くとも何ともない。読後には、徒労感しかない。
誤解してほしくないのだが、私は「素人は書くな」と言っているわけではない。
小説を書くとき、思い付きだけを元に書きすすめることがあるだろう。そして、「これは自分のオリジナルだ」と思い込む。
だが、そういう小説の大半は、すでに誰かが書いた小説の単なる劣悪版に過ぎないか、あるいは、すでに誰かが考え出した形式を踏襲したに過ぎない。
小説に関しても、多様化していて「キャノン」と呼べるような合意形成はないかもしれないが、どのような小説があり、どのような書き方があるのか、ということは知っておいたほうが良いだろう。
書くことばかりに専念して、読むことをおろそかにすれば、小説を書き続けても、白昼夢にしかならないのが関の山。上手に書きたいのならば、優れた作品を読むことが必須であるのは言をまたない。
「なんで自分が書いたこの作品は読まれないのだろう?」と思うとき、自分の無知を自覚したほうがいいのだろう。
どれだけ優れた作品を読んできたのかと自問することがなければ、単に「これはオレのオリジナリティに溢れる作品だ!」という思い込みを強化するだけで、人に読んでもらえる作品を書くことは一生ないだろう。
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