推理小説 | 黒猫(前編)
(1)
わが輩は猫である。名前はもうある。が、敢えて言う必要はなかろう。
わが輩がこの家の者に拾われたのは、昨年の5月末の頃だった。
とある公園で、食料を与えてくれる人を物色していたとき、目の前に、またたびを投げる人が現れた。わが輩は一気に魅せられてしまった。
えも言えぬほどの旨そうな匂い。わが輩は我を忘れて食べた。しかし、迂闊にもその間に、わが輩は、捕獲されてしまった。
野良猫だから処分されてもやむなし、と思っていたが、幸運にも、わが輩を引き取りたいという者が現れた。それが今のご主人様である。
私のご主人様は、容姿端麗な人である。美の基準が異なる異類の者とはいえ、わが輩にもその人間の美しさは理解できる。ご主人様は決して「若者」とは言えない。おそらく年齢は50歳前後だろう。しかしながら、肌はわが輩とは正反対の真っ白で、教養もあり素晴らしい頭脳の持ち主である。
そんなご主人であったが、結婚はしていない。こんなに美しく、またわが輩に優しく接してくれたことを思うとき、なぜご主人様が未だに独身なのか、わが輩には理解できぬ。まだ自由を謳歌したいのだろうか?
結婚とは、わが輩の世界では、制度的に整えられているわけではないが、一夫一婦が原則である。まぁ、人間とは異なり、ごく小さな頃にはこどもの面倒や「奥様」の面倒をみるが、性に関してもおおらかだし、浮気という概念も、あってないようなものである。
(2)
おっと、余計なおしゃべりをしてしまった。わが輩の世界のことはさておき、最近奇妙に思ったことがある。
たまにではあるが、ご主人様のもとにお客がやってくることがある。その度に不思議に思う。
今までやってきた人のほとんどが、ご主人様のことを「奥様」と呼んだり、「旦那さまはお元気ですか?」と尋ねることである。
わが輩は、公園でホームレスをする前の一時期、人間の家で飼われていたことがある。人が死ぬと、葬式をして、家にはたいてい、仏壇なるものを置くことになっていることを知っている。しかしながら、このご主人様の家には、仏壇はない。旦那さまが遠くに住んでいるというわけでもない様子である。
(3)
もし、ご主人様に「旦那さま」がいるとして、遠くに住んでいるわけでもなく、また、死んでいるわけでもないとすると、いったい全体旦那さまはどこへ消えてしまったのだろう?
そう言えば、わが輩はまだ、この家のすべての部屋をまわったわけではない。わが輩は優秀だから、トイレはこの部屋の決められた場所以外ではしたことがない。食事もいつもこの部屋で食べている。
たまに部屋にわが輩一匹残されることがあるが、その時、ご主人様はいつも部屋の外側から施錠していく。この部屋から外へ出るときは、いつもご主人様と一緒である。
もしかしたら、わが輩の知らない部屋に旦那さまがいらっしゃるのだろうか?
(4)
そんな日々がつづいたある日、「ピンポーン」と玄関で呼び鈴の音が聞こえた。何度も執拗に「ピンポーン」「ピンポーン」と繰り返されたから、ご主人様は慌てていたのだろう。わが輩の部屋に施錠せぬまま、部屋を出ていった。
部屋から一匹で出かける「チャンス」だと思った。もしも、本当に旦那さまがいらっしゃるならば、あいさつしておきたいという気持ちもあった。
わが輩は、ドアの隙間から、こっそりと外へ出た。一階は、ご主人様が玄関でお客の接待をしているから、わが輩はとりあえず、二階の部屋を覗きにいった。
ドアはどの部屋も閉まっているから、物音を聞きながら、部屋をめぐった。
特に誰かがいるような雰囲気もない。やはり、わが輩の思い過ごしか?
今まで、ご主人様以外の人間は、この家の中で、出会ったことがない。
しかし、ここまで来たら、とりあえず、もう一部屋まわっておこうか。
……< つづく >
記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします