エッセイ | 主観的事実と客観的事実が重なるとき
他人のこころを直接覗くことは誰にもできない。翻って、自分のこころは、自分自身には普段見えているように思っているが、それの大部分は、ある程度言語化されたことに限定されている。そして、他人は私のこころの中の言語を読み取ることで私の思想を読み解くのではなく、私が行った行動を見て「この人はこういう人なのだ」という心象を形成していく。
私の考え方というものは、他人から見れば、不条理に思えたり、なぜそんな行動をしたのか意味がわからない、なんていうことはザラにある。
例えば、私が心の中である種の賭けをしたとしよう。
「あの花が咲いている間は、私はうまくいく」と強く思う。そして、1日の終わりに花が咲いているのを見る。すると、今日1日を無事に過ごすことができたのは、あの花が咲いていたからだ、と考える。
そういう日々が1週間つづいて、1週間無事に過ごすことができたら、「あの花が咲いていたからだ」と信じるようになる。8日目に私に悲劇的なことが起こった。あの花を見たら、案の定、花は枯れていた。やっぱりそういうことか、と私は考える。あの花に対する私の「賭け」は信念に変わる。
非科学的に思えるだろう。しかし、私にとっては、あの花と私の運命は一致している。こう考えるのは理不尽だろうか?
客観的な事実かどうかはわからない。しかし、主観的な真実として「あの花が咲いている間は、私はうまくいく」という命題は成り立っている。さらに言えば、極めて論理的ですらある。私以外の他人に「私の真実」を否定することはできても、私を説得することはできないだろう。
他人に関しても同じことが言える。私から見れば、どんなに支離滅裂に見えようが、その人にとっては主観的な真実というものがあるだろう。私には「あんた、間違っているよ」なんて容易く言うことはできない。
客観的真実とは何であろう?「客観的真実」とはみんなが分かる理屈で説明できることを意味し、相手の主観的な真実をみんなが受け入れることができるなら、そのとき「主観的な真実」と「客観的な真実」との間に何ら区別する理屈などないのではないだろうか?