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エッセイ | 作品は投稿した瞬間に自分だけのものではなくなる。

 もう2年近く前のことになるが、「#作者がコントロールできること・できないこと」という記事を書いたことがある。

 なかなか作者が思ったとおりには作品は読まれることがない。もっと作者の作品に込めた思いに耳を傾けたらどうだろう?、という気持ちで書いた。

 だが、どんな作品であっても、それが古典的な地位を占めるような作品であればあるほど、誤読というか、換骨奪胎したような解釈をされるのはやむを得ないのかな、と思うようになった。

 noteのひとつの記事であっても、「誤読」というと語弊があるけれども、私の思いとは異なる解釈をされることがあった。

 ひとつだけ例を挙げる。
 以前「#作家になれる人・なれない人」という記事を書いたことがある。

 私がこの記事を書いたのは、作家というものは、生活のために書いたものを売ることよりも、空気を吸うのと同じように、「書く」ということがなければ生きられないような人のことをいうのではないか?、という趣旨を伝えるためだった。

 生活の中心が「書く」という行為に収斂するような生き方しかできない人。人中にいるときも、知らず知らずのうちに「書く」ための人間観察をする人。寝ても覚めても、「書く」ことに常にプライオリティをおく人。売るために書かなきゃ、ではなく「書く」ことそのものがその人の血に流れているような人。それが作家なのではないかと。

 しかし、この記事を読んでくださった中には、「noteは毎日更新すべき」ということを伝えるために書かれた記事だと思った方がいたようだ。

 私が当該記事を書いた趣旨とは明らかに異なるのだが、確かに自分で読み返してみたら、そのようにも読める。だから、私の意図とは異なっているからと言って、誤読だとは言えない。言わない。

 明らかな誤読や、片言隻句を切り取ったような解釈は、書いた本人としてはイヤだ。しかし、きちんと読んでくださった上で、自分の趣旨とは異なる解釈をされても文句は言えない。

 新聞のように、事実を淡々と伝えるような文体であったとしても、人によって力点は違うし、興味・関心も違う。

 自分の思いを明確に伝えるためには、誰が読んでも唯一の解釈しか許さないような文章を綴ればいいのだが、そういう文章って面白くとも何ともない。

 ちょっと今まで書いた自分の記事を読み直したとき、どれほど自分の思いが忠実に伝わっているのだろうと思うと不安になる。

 けれども、やっぱり書くしかない。絵画でも楽曲でも小説でも、作り手とそれを鑑賞する人がいて、はじめてひとつの作品になる。作者の思いと異なる解釈をされたとしても、甘受しながら創作をつづけるしかない。作者と読み手がいてはじめて、ひとつの作品が存在するのだから。



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山根あきら | 妄想哲学者
記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします