エッセイ | 国語の試験問題が苦手でした。
今年も、もう11月になった。年が明ければ、主に高校生が受験する「共通テスト」がはじまる。
中学生も、年が明ければすぐに私立の入試がはじまる。
さきほど英語の共通試験について記事を書いた。
この記事では、「国語」の試験について書いてみたいと思う。
私は中学生の頃、国語の試験では苦労した。中間・期末テストのように、出題される範囲があらかじめ分かっている定期テストでは、9割、悪くても8割以上得点することができたが、模擬テストになると、だいたい6割くらいしか得点できなかった。
高校生になって、実力テストや模擬テストを受けると、偏差値40くらい。英語のテストでは、60後半から70を越える偏差値だったから、担任の先生から、「なんで英語でこれだけの点数が取れるのに、国語はこんなにできないのか?」とよく言われた。
国語のテストというものは、百点💯をとることは難しいけれども、特に何も勉強しなくても、そこそこの点数はとれる。まず零点をとることはない。その点で、勉強しなければ、下手をすると零点もありうる数学とは違う。
同じ国語の中でも、古典や漢文のようなものは、ふだん使っていないぶん、覚えているだけで得点につながりやすいので、対策のしようがある。しかし、現代文というものは、なかなか勉強するといってもつかみどころがない。
まぁ、たくさん読書すれば「読解力」はつくと思うが、「社会」「理科」のように用語を覚えるだけで点数になるような科目とは違って、国語の勉強は「全体の点数をあげる」という観点から考えると、「コスパがよくない」。
というわけで、国語(とくに「現代文」)に関しては、なんとかしなくてはなぁ、と思いつつ、勉強の仕方がよく分からず、しばらく放置していた。
とはいえ、ずっと偏差値40くらいじゃやだなぁ、なんて思いはじめて、問題集を解いてみることにした。正確にいうと、「解く」のではなく、「読む」。
問題を読んだあと(面倒なので、問題は解かずに)、解答と解説を読むということを繰り返した。気休めのような気持ちで。
「ただ問題と解答・解説を読む」という勉強とも言えぬような勉強をしていたら、最後の頃の模試で、偏差値70を越えるとき出てきた。
ちょっとした国語の問題のカラクリがわかってきた。
私は「国語」という科目を誤解していたようなのだ。「自分がどう思い、読んだものから、何を引き出すかということ」が読解力であると思っていた。
しかし、問題と解答・解説を読んでわかったのは、国語の問題というものは、「私が何をどう思うか?」ということは全く求めていない。
国語の問題は、出題された本文と問題文のみの世界であって、そこから外れるものは関係がない。
作者が自分の文章を出題されて、自分で問題を解いてみたら正解できなかった、という話を聞いたことがある。
「そんなバカな!」と高校生当時は思ったのだが、そういうことは十分にありえる。
作者は、問題として出題された文章前後のカットされてしまった「文脈」を知っている。しかし、国語の問題では、問題用紙に書かれていることがすべてであって、書かれていないことを根拠にして答えてはならない。
国語の問題にこたえる時には、自分勝手な「深読み」をしてはいけない。根拠にするものは、必ず「本文中」に書いてあることのみ。書いていないことを書いている選択肢は、「言い過ぎ」であって間違い。一般常識的に正しいことが書いてあっても、作者の思いと異なっていればそれも「不正解」になる。
国語の問題を解くキモになるものは、「本文」と「設問」のみ。
自分のフィーリングと出題者のフィーリングが合っていればいいかもしれないが、「出題者のフィーリング」に合わせることが「マスト」である。
それを忘れてしまうと、国語の点数はなかなか伸びないと思われる。
ちなみに、私の国語は、センター試験直前の模擬テストで、高校生活の中の過去最高点を挙げたが、肝心のセンター試験では緊張しすぎて過去最悪の点数だった。なかなか人生うまくいかないものである。
「国語」という科目は嫌いだが、国語そのものは好きだ。大人の読書では、「深読み」してもいいし、「誤読」してもいいし、プラスになることがあればそれでいい。全部読まなくても、読みたいところだけ読めばいいので、気楽に楽しみたいと思っている。
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