『舞姫』の豊太郎はどこまでが鷗外自身でどこからが創作か
高3の秋から冬にかけて原稿用紙30枚分、国文学について自分でテーマを設定して研究をするという課題が出た。相当な時間と労力をかけたにも関わらず担当教員とごく僅かな知人を除いて一切日の目を見ていないこの成果を供養してみたいと思った。以下は高3次に私が書いた『舞姫』についてのレポートだ。
序論
明治二十三年、森鷗外は『国民之友』に獨逸三部作の第一作目となる『舞姫』を発表した。軍医森林太郎としてドイツ留学を終えて二年足らず、本格的な文筆活動を始めて一年程の出来事であった。
文語体であり比較的難解とされながらも多くの高校教科書に載り続けるこの作品。主人公の豊太郎やヒロインのエリス、友人の相沢謙吉にはモデルがおり、ストーリーには作者鷗外の留学中の体験に重なるものがあるという事実はあまりにも有名だ。
ところが、鷗外本人もモデルの一部であるとされる豊太郎は、自分のことを信じ愛している身重のエリスを見捨てパラノイアに陥れさせるという現代の感覚からしてみれば下衆と言われても仕方のない描かれ方をしている。自分と重ねられるであろうとわかっていて、なぜこのようなキャラクターを作り上げたのか。豊太郎とエリスの物語はどこまでが創作でどこまでが鷗外の実体験なのか。鷗外自身や『舞姫』と実在のエリスについても触れながら探って行きたい。
なお、『舞姫』の本文は『鷗外全集』(岩波書店)により、本文の末尾に頁数を記した。
本論
第一章 実在のエリス
序論でも述べたように『舞姫』の物語は鷗外自身の実際の経験から多くの発想を得ている。豊太郎のキャラクター像にも多大な影響を及ぼした筆者について、ドイツ留学までに焦点を当ててまずは述べて行きたい。
森鷗外は1862年に現在の島根県南西に位置した津和野藩の典医の後継息子、森林太郎として生まれ、類稀な勉学の才能を持つ次代の希望として育てられた(1)。明治維新をきっかけに十歳で上京した後は、遠縁にあたる西周の手引によりドイツ語を学び、実年齢を偽って十一歳の若さで官立医学校(現在の東京大学医学部)予科に入学した(2)。本科に進学してからは学校での西洋医学の勉強に使うべき時間を削り自ら東洋医学を学び始めた上、その成果をドイツ人教師たちの授業で主張し成績を落とすことになってしまう(3)。更に、文学を愛し不朽を目指した林太郎は漢詩文の修行に情熱を注ぎ始め、三十人中四位だった成績は卒業時には八位まで落ちてしまった(4)。それでも、周りの学生より六歳前後若かったことを考えると十分優秀だったと言える。卒業後はその成績から選考に漏れてしまった文部省留学生になりドイツに行くことを諦めきれず空白の期間を過ごすも、西周の思惑や同級生の小池の推薦もあり陸軍軍医副に任官(5)。1884年から1888年にかけてプロイセン国陸軍の衛生制度取調を主な目的としてドイツ留学を果たした(6)。
既に明らかであるように、若かりし鷗外の半生は太田豊太郎のそれと酷似している。
十九の歳には學士の稱を受けて、……某省に出仕して……洋行して一課の事務を取り調べよとの命を受け……遙々と家を離れてベルリンの都に來ぬ。(426頁)
豊太郎も鷗外も19歳の若さで大学を卒業し、国家の機関に就き、ドイツでの制度を調べるために洋行している。違いといえば成績を落としてしまった鷗外に対し豊太郎は首席であったことと、学んでいた学問の差異くらいである。また、「法科の講筵を餘所にして、歴史文學に心を寄せ、漸く蔗を嚼かむ境に入りぬ。」(428頁)と本来自分が学んでいたはずの学問を放り出して文学に没頭した点も共通している。豊太郎のモデルには鷗外の他にも、友人であり同時期にドイツへ留学していた竹島務が含まれるとされている(7)が、人々が豊太郎と鷗外を重ね、ドイツ人女性との恋物語のヒーローとして捉えたのは言うまでもないだろう。
それでは、豊太郎の恋人、悲劇のヒロインエリスについてはどうだろうか。
実在のエリスについて初めて触れたのは鷗外の息子、森於菟で、1933年のことであった。於菟は
然し潑剌たる活氣に滿ちた伯林生活が若若しい力に溢れた父の地に影響を與へて、實在で有つたか否かは私は今此處に述べたくないが、エリスの如き少女の形が暫く其腦裡を離れなかつたにちがひない。
と、「エリスの如き少女」の存在を断言している(8)。しかし、ここにはそれ以上の記述は無かった。
於菟の次に実在のエリスについて触れたのは、鷗外の娘である小堀杏奴であった。1936年の2月に杏奴は著書で鷗外の『扣鈕』の詩を引用し、そこに詠まれている「黄金髪ゆらぎし少女」がドイツ留学時代の恋人だと思われること、『舞姫』に書いてあることは殆どが創作で妊娠も狂気に陥ったことも事実とは異なること、実在のエリスは鷗外の後を追って来日したがすぐにドイツに帰してしまったこと、しかしその後も長らく文通が続いていたことを明かした(9)。これにより、豊太郎とエリスが鷗外と実在のエリスとはっきり重なることとなった。また、同年四月於菟は『東京日日新聞』で
親孝行な父を総掛かりで説き伏せて父を女に遇わせずに代理に父の弟森篤次郎と親戚の某博士とを横浜港外の船にやり、旅費を与えて故国に帰らせた
と述べた(10)。これらにより実在のエリスの来日について明かされたことで、彼女を特定しようとする動きが見られるようになった。
ところが、実在のエリス探しは難航した。先述の於菟の記事を読んだ鷗外の妹小金井喜美子は同年六月『文學』で
エリスといふ人は心安くしたでせう。……歸朝の時後を慕つて來たのはほんとです。
と、実在のエリスの名を「エリス」と書した(11)。この記述は鷗外の実の妹のものであることから信用され、実在のエリスの名前がエリスでないことは四五年間明らかにされなかった。
事態を変えたのは1982年5月26日の朝日新聞夕刊であった。そこでは実在のエリスの来日時の客船名簿が週刊英字新聞に掲載されており、その氏名は "Elise Wiegert" であることや、1888年の来日、離日の日取りが明らかになったことが記された(12)。この記事により喜美子の証言の信憑性は失われたと考えられ、「エリス」の来日という記述の誤りが明らかになった。更に、2011年には六草いちか氏により実在のエリスはエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトという名であること、後述するユダヤ人でもなければ賤女でもないことが改めて確認され、この調査過程で判明した人名や地名が『舞姫』の作中に散見されることが発見された(13)。
しかしこの証明までの間、実在のエリスをユダヤ人とする説(14)や賤女であったとする説(15)などが唱えられていた。しかし私はこのいずれをも否定したい。まずユダヤ人説については、その根拠の殆どが『舞姫』作中のエリスである。これは実在のエリスについて論ずるには不適切であり、再考の余地が残る。また、多くのユダヤ人説で根拠とされる実在のエリスのヴァイゲルト姓だけからはユダヤ人であると判断できず、更に彼女の実際の姓であるヴィーゲルトはユダヤ人の姓としてはあり得ないと林尚孝氏は述べており(16)、私もこれに賛同したい。実在のエリスが賤女であったとする説についてはやはり林氏が否定しており、これも正当だと考える。林氏は実在のエリスが一等船客として来日した事実や彼女の所持品が中流階級以上のそれであったことなどを挙げ(17)、喜美子の「次ぎの兄」での実在のエリスについての「路頭の花」であり「少し足りない」という記述(18)を否定した。また、先述の喜美子の『文學』での
大變手藝が上手で、洋行歸りの手荷物の中に、空色の繻子とリボンを巧につかつて、金絲でエムとアアルのモノグラムを刺繍した半ケチ入れがありました。……歸つて帽子會社の意匠部に勤める約束をして來たといつて居た。
という記述(19)も賤女説を否定するものだと考えられる。元より賤女であるならドイツ帰国後わざわざ帽子会社に就職せずに元の職に戻るのが自然だからである。更に、後年六草いちか氏が明らかにしたところによると、実在のエリスは高級リゾート地であるチェコのカルロヴィ・ヴァリに長期滞在しており(20)、貧しかったとは考え難い。このように、小金井喜美子の証言をベースとして唱えられてきた実在のエリスユダヤ人説や賤女説は誤りであると私は考える。
それでは実在のエリスはなぜ来日したのだろうか。私は鷗外が実在のエリスと結婚するつもりであったという説を推したい。実在のエリスが鷗外より先にドイツを発ち日本を目指していたこと(21)やエリスの説得に4週間の時間をも要したのみならず鷗外への説得は総掛りであったという記述(22)からして、鷗外と実在のエリスは訪日について示し合わせており、できることなら結婚するつもりであったと考えるのが自然であると考える。これに対して、当時の軍人は外国人女性と結婚しないのが通念であったため鷗外も初めから結婚できないとわかっていたという反論も存在する(23)。しかし、
外国婦人と結婚できぬという規定はなかった。しかし軍の通念を鷗外も知つてゐたであらうといふのは、あくまで推定である。従つて逆にそれを知らなかつたとする推定も成り立つ。ことに陸軍軍人とはいへ……軍医である。軍人意識の点にも相違があるであろう。
と(24)され、真実であるという証拠はない。したがって鷗外は周囲の理解さえ得られれば実在のエリスと結婚するつもりであった、そのため彼女は訪日したと考えられる。
このように、『舞姫』の登場人物には豊太郎のみならずエリスにもモデルが存在したと思われる。実在のエリスで中流階級と考えられるドイツ人女性エリーゼ・ヴィーゲルトは鷗外と結婚する示し合わせのもと訪日したのであると考えられる。
第二章 エリスとエリーゼ
エリーゼの存在が明らかになったところで、『舞姫』のエリスがどこまで実在のもので、どこからが創作なのか論じたい。多くの研究者がエリスとエリーゼを同一視してきた中で、竹内好氏はエリスを空想の産物としている。
エリスは実在のエリスを下敷きにしていず、弁明であるよりはむしろ鷗外の願望をあらわしている(25)
太田の心理の描き足りなさにくらべて、エリスの方はほとんど完璧である。その理由はたぶん、エリスが空想の産物だからであろう(26)。
というのだ。確かに、物語の人物としての豊太郎像がしばしば揺らぐのに対してエリスのそれは一貫している。その点からしてみればエリスは空想であるという見方は自然だ。しかし、エリスがエリーゼをベースにしていようがいまいがそれは所詮他人である。エリスはエリス本人ではなく鷗外の中のエリスなのだから当然自身を投影した豊太郎より心理描写はしやすく、完璧なものになるだろう。従って、その心理描写からエリスが完全に空想のものであると断定する竹中氏の見解には再考の余地が残る。
それでは、エリスはエリーゼと同一人物なのかと問えばそれもまた違うだろう。第一に、仮にエリスとエリーゼが同一であるならば名前を変える必要はない。「エリス」という名はドイツには存在せず鷗外が独自に考案したものだとされる(27)。これは日本の読者に親しみやすいようにそうしたとも考えられるが、エリスとエリーゼを異なる人物とするため敢えて違う名前を使ったと私は解釈したい。
第二に、エリスが狂気に陥ったり妊娠したりしたことは事実ではない。実在のエリーゼの子供は帰独後の居住地であるベルリンの記録には存在せず(28)、小金井喜美子の夫は「流産したとかいふけれどそんな様子もないのだから」と述べている(29)。また、ダルドルフの癲狂院にもエリーゼの入院記録はなかったとされている(30)。このことから本文の
これよりは騷ぐことはなけれど、精神の作用は殆全く廢して、その痴なること赤兒の如くなり。醫に見せしに、過劇なる心勞にて急に起りし「パラノイア」といふ病なれば、治癒の見込なしといふ。ダルドルフの癲狂院に入れむとせしに、泣き叫びて聽かず、後にはかの襁褓一つを身につけて、幾度か出しては見、見ては欷歔す。余が病牀をば離れねど、これさへ心ありてにはあらずと見ゆ。たゞをり/\思ひ出したるやうに「藥を、藥を」といふのみ。(446, 447頁)
という記述は創作であることがわかる。従って物語の後半のエリスは実在のエリーゼではない。
それでは、前半のエリスはどうだろうか。六草いちか氏はその研究過程でエリーゼの曾姪孫に実際にあって取材をし、往年のエリーゼの写真を入手している(31)。彼女はエリーゼの曾姪孫であるフェター氏の肌を
まさしくミルクのように真っ白だ。これはヴィーゲルト家の血筋なのだろうか(32)。
と、
彼は優れて美なり。乳の如き色の顏は燈火に映じて微紅を潮したり。(432頁)
に擬えて表現している。また、エリーゼの髪色についてフェター氏はブロンドだと思われると述べている(33)。これは
年は十六七なるべし。被りし巾を洩れたる髮の色は、薄きこがね色にて、(430頁)
というエリスの描写と重なる。これらのことからエリスは実在のエリーゼの名前を借りてきただけの存在ではなく、容姿もエリーゼそのものだったと考えられる。
ところで、鷗外はどこでエリーゼと出会ったのだろうか。エリーゼは一体何者だったのであろうか。林尚孝氏はエリーゼをミュンヘンの舞師だとしている。
鷗外は人物の氏名を書き残す癖があることから考え、逆に深い交際があるのに名前を書いていない人物こそエリーゼの可能性があるのではないか。……一人はミュンヘンの「舞師某」であり、もう一カ所はベルリンの「友侶」である。
と、『獨逸日記』から名前を伏せた人物を探し出している(34)。林氏はこの「舞師某」と「友侶」を同一人物と考え、エリーゼがミュンヘン出身の舞師であれば帰独の際にプレーマーハーフェン港ではなくジェノバで下船していることに説明がつくとしている(35)。しかし、六草いちか氏によって
エリーゼの情報としては、これまで『ベルリン住所長』の一八九八〜一九〇四年版でその消息が確認できていた
と(36)、帰独後のエリスがベルリンに住んでいたことを示す資料が発見されており、これは林氏の
鷗外のいないベルリンはエリーゼにとって何の意味もなく。ジェノバから出身地のミュンヘンに戻ったものと考えられる。
という考察(37)と矛盾する。従って、エリーゼが『獨逸日記』に登場するミュンヘンの「舞師某」であるという説には疑問点が残る。『獨逸日記』からエリーゼを探し出そうとした研究者は林氏だけではなかった。中井義幸は「カフェ・クレップスの女」こそエリーゼだとしている。当時の鷗外の愛読書であった独訳ツルゲネフ小説を少女は読んでいたのというのである。また、ツルゲネフの『幻影』のヒロインの名は独訳では "Ellis" とされておりここにエリスというヨーロッパに存在しない名の誕生の謎が解明されている(38)。また、
二十七歳の作『舞姫』、三十七歳の作『独逸日記』、四十六歳の作『ヰタ・セクスアリス』と、林太郎は、三たびくり返し、同じ一人の女性のことを語っている。
ベルリンの林太郎に恋の相手がいたとすれば、その忘れ難い一人の女性、「カフェ・クレップスの女」以外にはなかろう。彼女こそ「エリス」なのだ。
と(39)、エリーゼが鷗外の三つの作品に登場していることを指摘した。これに関して、『舞姫』には豊太郎とエリスの姿としてこのような描写がある。
彼は幼き時より物讀むことをば流石に好みしかど、手に入るは卑しき「コルポルタアジユ」と唱ふる貸本屋の小説のみなりしを、余と相識る頃より、余が借しつる書を讀みならひて、漸く趣味をも知り、言葉の訛をも正し、いくほどもなく余に寄するふみにも誤字少なくなりぬ。かゝれば余等二人の間には先づ師弟の交りを生じたるなりき。(434頁)
これにはツルゲネフ小説を通じて仲睦まじくなる鷗外とエリーゼに通ずるものがあると見られる。中井氏の「カフェ・クレップスの女」エリーゼ説は、この女性が繰り返し鷗外作品に登場する点、『舞姫』の豊太郎とエリーゼのエピソードに鷗外とこの女性が重なる点からして有力だと考えられる。このように、前半のエリスはエリーゼの影が色濃く現れている。
前半のエリスと後半のエリスが切り替わる点はどこか。私は「明治廿一年の冬」(436頁)だとする説を支持する。それ以前は貧しくとも平穏で楽しげであった豊太郎とエリスの生活が、妊娠の発覚と相澤謙吉からの手紙により悲劇へと一気に急転する。この変化にエリーゼからエリスへの転換を重ねたい。中井氏はベルリンでの鷗外とエリーゼについての記述の締めとしてこう述べている。
小説では免官となって金に窮した豊太郎が、それまで住んだモンビジュウの家を出て、クロスター街のエリスの家の屋根裏部屋に行き、そこで彼女と貧しく慎ましやかに暮らす。実伝の林太郎は、逆にクロスター街の裏町の下宿を出て、モンビジュウの表通りの高級アパルトマンに移り、そこで「エリス」と暮らした。豊太郎の動きは、実際の林太郎の動きと逆になっている。物語は実伝を逆立ちさせた形になっており、小説の冒頭で、豊太郎のモンビジュウの家を尋ねて来るエリスの姿を描く作者林太郎の脳裏には、自分のベルリン生活の最後の三ヵ月、モンビジュウの家で共に暮らした「エリス」の姿が浮かんでいたはずである(40)。
エリーゼがエリスに転換するのと同時に、物語は鷗外と豊太郎の二人の物語から、実伝とは異なる豊太郎のフィクションへと切り替わるのである。
第三章 舞姫
エリス妊娠からの物語がフィクションであるなら、鷗外はなぜそれを描こうとしたのだろうか。1890年の発表から今日に至るまで様々な説が唱えられてきた。その中の広く信じられているものの一つに、鷗外とエリーゼの関係についての問題を解決し、今後日本で生活して行くための宣言とするものがある。
鷗外の創作手法は拠りどころとするものに依拠する度合いが強く、自らの心の記念とする手法がとられているとされる(41)。それでは後半のフィクションは、あまりにも有名な末尾の
嗚呼、相澤謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我腦裡に一點の彼を憎むこゝろ今日までも殘れりけり。(447頁)
の文は、何を基に描かれたのだろうか。
賀古鶴所は鷗外の『舞姫』朗読を聞いて「己れの親分氣分がよく出て居るとひどく喜ん」だといい(42)、彼のみが相澤のモデルだと一般に言われている。しかし、小金井喜美子の夫である小金井良精も相澤のモデルに含まれるという説が存在する。小金井良精は賀古鶴所と共にエリーゼの説得にあたったとされる(43)。
鷗外は、ドイツ留学の経験がある小金井に、エリーゼとの結婚を後押しして貰えるという期待を抱いていたのかも知れない。それなのに、鷗外が承知していない手紙をエリーゼに渡し、破局に到ったことを恨みに思ったとしても不思議ではない。しかし、小金井を直接非難することはできないので、相澤謙吉はあたかも賀古鶴所であるかのように描いたのではないか。
鷗外は賀古鶴所を相澤謙吉の主なモデルとすることで、相澤の中の小金井の影を消したというのだ(44)。更に、
「舞姫」はベルリンを舞台にしているものの、鷗外の帰国後の体験を小説化したものである
としている(45)。確かにこの説を否定する証拠はない上、鷗外の創作における特性を鑑みると自然な考え方とも言える。
鷗外はエリーゼと結婚するつもりで帰国し、示し合わせのもとエリーゼを呼び寄せたとも考えられている。
しかし、日本に帰ってみて、余りにも堅く古い明治の現実の前に鷗外は携えて帰ろうとした異国での愛を切り捨てる他はなかった(46)。
鷗外がこの愛を切り捨てるのに大変な苦労をしたのは言うまでもないだろう。杏奴はこう記している。
この女とはその後長い間文通だけは絶えずにいて、父は女の写真と手紙を全部一纏にして死ぬ前自分の眼前で母に焼却させたと言う(47)。
鷗外は死ぬ間際までエリーゼとの恋を大切にしていたと考えられるのである。これほど大切な関係であるからして、
鷗外が「エリス」との何らかの約束を破棄することによって起る精神的苦悶からの脱却とその決断を要請するため
には相当の期間が必要であった筈だ(48)。この「精神的苦悶」から再び立ち上がるため、「腸日ごとに九廻すともいふべき慘痛」(426頁)を豊太郎に代弁させるため、『舞姫』を書いたとも考えられるだろう。
エリスの人物像とは何か、太田豊太郎の人物像とは何か。こういう正面切っての分析は案外行ない難いのではないか。
とされる(49)のは、鷗外がエリスとエリーゼを重ね、豊太郎に自身の心情を代弁させるためにキャラクターをつくったため、一般的な小説の登場人物のように一つの固まった人物像がなく、あくまでも実在の人間の域を脱しなかったからではないだろうか。
『舞姫』の発表当時、
主人公が立身出世のために恋人を捨てると言う結末の功利性と、浪漫的純粋性、反俗性との不調和
はすでに問題となっていた(50)。鷗外もこのような評価がされるだろうと予想はできただろう。それでも『舞姫』を書き発表した真の理由は鷗外本人以外の知る由がないだろう。しかしそれを敢えて推し測るのならば、私は先述の通り三点、小金井良精への恨みを書くためという説、エリーゼとの別れという精神的苦悶から立ち直るためという説、またその痛みを豊太郎に代弁させるためという説を挙げたい。
結論
本論では、鷗外がなぜ批判を予想できたであろうにも関わらず『舞姫』を執筆・発表したのか、その物語はどこまでが豊太郎とエリスの物語でどこまでが鷗外とエリーゼの物語なのか、作者本人や周囲の人々について触れながら探ってきた。第一章では、鷗外の半生について言及しながら豊太郎と鷗外の重なる点について論じ、更には実在のエリスの存在について明らかにした。第二章では、エリーゼとエリスの一致と差異について検証し、物語の事実を基にした部分から完全なるフィクションへの転換について述べた。第三章ではあくまでも推量の域を脱することはできないとしながらも、鷗外が『舞姫』を執筆した理由について考察した。
天才として生まれ育ち、軍医としては陸軍省医務局長にまで上り詰めながら小説家としても世に名を馳せ、晩年には帝室博物館総長や帝国美術院初代院長なども歴任した森鷗外。その初期の作品でありながら最も有名な作品の一つとして130年以上の間人々に読まれ、愛され、考察されてきた『舞姫』。高雅な文体で書かれ、ロマンチシズム溢れるこの作品は近代文学の代表として挙げられる傑作である。
鷗外は若き陸軍軍医として赴いたドイツでエリーゼと恋に落ち、結婚を決意し帰国するも、当時の日本で、鷗外の置かれた環境では、それは叶わぬ願いだった。一年四ヶ月のち、鷗外は『舞姫』を発表する。その内容から多くの論争の種となり、鷗外自身も批判に応戦するなどし、それは最初の本格的な近代文学論争と言われるまでであった。ところが、その論争は『舞姫』の内容についてでありエリスとエリーゼ、豊太郎と鷗外についてではなかった。
エリスがエリーゼの影であることが世に知られるまでは、実に47年間もの歳月を要した。それは鷗外が『舞姫』発表後エリーゼの存在を秘匿し、家庭内でも禁句としたためである。結果、鷗外が六十歳で死去し、親族が実在のエリスについて触れだすまで人々の知る由もなかったのである。
しかし、どれだけ秘めようとしたところで確かにそれは鷗外とエリーゼとの物語であり、鷗外の心情を代弁する創作であった。
註
(1)平川祐弘・平岡敏夫・竹盛天雄編『鷗外の人と周辺』(新曜社、一九九七)十五頁
(2)中井義幸『鷗外留学始末』(岩波書店、一九九九)七八頁
(3)(2)に同じ、一〇二頁
(4)(2)に同じ、一〇二―一〇八頁
(5)(2)に同じ、一一四―一二三
(6)『日本人名大事典』(平凡社)の「森鷗外」の項目。執筆者は鹽田良氏。
(7)例えば、長谷川泉「解釈と鑑賞 舞姫――(一)(森鴎外)近代名作鑑賞二」(『國文學:解釋と鑑賞』至文堂 一九五七年八月)がある。
(8)森於菟『新編解剖臺に凭りて』 (富士出版 一九四七年七月)一〇六頁 初出は一九三三年。
(9)小堀杏奴『晩年の父』(岩波書店 一九八一年九月)一七一―一七三頁 初出は一九三六年二月。
(10)森於菟「父の映像」(『父親としての森鷗外』筑摩書房 一九六九年十二月)八四頁 初出は一九三六年四月。
(11)小金井喜美子「森於菟に」(『文學』岩波書店 一九三六年六月)二〇二頁
(12)中川浩一・沢護「鷗外の舞姫エリスのモデル―本名はミス・エリーゼ」(『朝日新聞』夕刊 一九八一年五月二六日)
(13)六草いちか『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』(講談社 二〇一一年三月)
(14)例えば、川副国基「「黄なる面」の太田豊太郎」(『瀬沼茂樹古稀記念論文集』河出書房新社 一九七四年十月)がある。
(15)例えば、山﨑國紀「鴎外の恋人は『賤女』だった」(『文藝春秋』 二〇〇五年五月)がある。
(16)林尚孝「エリーゼはユダヤ人ではない─「舞姫事件」考(その四) ─」(『鷗外』 森鷗外記念会 二〇〇九年一月)
(17)林尚孝「エリーゼはミュンヘンの「舞師」である─ 「舞姫事件」考(その三) ─」(『鷗外』 森鷗外記念会 二〇〇八年七月)三七頁
(18)小金井喜美子「次ぎの兄」(『森鷗外の系族』 岩波書店 二〇〇一年四月)一一八頁 初出は一九三七年五月。
(19)(11)に同じ、二〇三・二〇四頁
(20)六草いちか『それからのエリス 今明らかになる鷗外「舞姫」の面影』(講談社 二〇一三年九月)三二八頁
(21)(16)に同じ
(22)(10)に同じ
(23)笹淵友一『明治大正文学の分析』(明治書院 一九七〇年十一月)
(24)成瀬正勝「舞姫異論説─鷗外は実在のエリスとの結婚を希望してゐたといふ推理を含む─」(『国語と国文学』至文堂 一九七二年四月)一四頁
(25)竹内好「エリスは空想の産物である」(『國文學:解釋と鑑賞』至文堂 一九六一年五月)五七頁
(26)(23)に同じ、五八頁
(27)中井義幸「「エリス」という名について」(『鷗外』森鷗外記念会 一九七五年七月)17号
(28)(18-1)に同じ、六二頁
(29)(11)に同じ、二〇四頁
(30)(18-1)に同じ、三〇〇頁
(31)(18-1)に同じ、三一三―三二五頁
(32)(18-1)に同じ、三一四頁
(33)(18-1)に同じ、三二四頁
(34)(16)に同じ、四二頁
(35)(16)に同じ、四六頁
(36)(18-1)に同じ、四四頁
(37)(16)に同じ、四六頁
(38)(2)に同じ、三〇七―三〇九頁
(39)(2)に同じ、三一〇頁
(40)(2)に同じ、三一九・三二〇頁
(41)長谷川泉「鷗外「舞姫」論をめぐって」(『季刊 文学・語学』 全国大学国語国文学会 一九七〇年六月)一〇頁
(42)(11)に同じ、二〇四頁
(43)(16)に同じ、三六頁
(44)林尚孝「「舞姫」の相澤謙吉のモデルは誰か」(『鷗外』森鷗外記念会 二〇一六年七月)三五頁
(45)(42)に同じ、三六頁
(46)山崎國紀「鷗外とエリス─「舞姫」論異見補遺─」(『國文學─解釈と教材の研究─』學燈社 一九七五年十月)一八八頁
(47)(9)に同じ、一七三頁
(48)(44)に同じ、一八四頁
(49)板垣公一「森鷗外『舞姫』論覚書─どのように読まれて来たか─」(『名城大学人文紀要』名城大学人文研究会 一九九七年三月)九頁
(50)師井キヌエ「「舞姫」批評史略」(『学苑』昭和女子大学 一九六四年十一月)二七頁
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