読書『言葉というもの』『文学の楽しみ』
コミュニティFM「渋谷のラジオ」の番組「Book Reading Club」をされている宮崎智之さんが紹介していた吉田健一の本を知り、すぐ読んでみたいと思い借りて読んだ。
『吉田健一著作集 24巻』に収められた『言葉といふもの』では、言葉というものが(思考や生活のためだけでなく)人の精神にとって欠かせないものであり、人に「生命を与え続ける」ことを説いている。
明治以降の「西洋の基準に即して」書かれた形式的な「文学と称するもの」の価値を一蹴し、言葉と人とは「生命を分かつ」根源的関係にあるという。言われればそう、という内容だが、当時(1970年代前半)は文学の本質を論じることは軽んじられていたのかもしれない。
その本質へ切り込んで、それを言葉で切り出した文章は図らずも格言のようで、著作は名言集のよう。もしかすると「言葉とは何か」を表現したい人にとって、ここに極まれり、な文章なのかもしれない。
吉田健一自身、『文芸時評』で名文についてこう書いている。
ただ、言葉で表現される究極の対象(または語ることの根源)が「生命」「精神」「経験」「現実」「考える」といったもので、自ずと形而上学的な用語が用いられているので、それこそ「生命」とかを詩的な文脈で読み手側が掴めないと、著者の言わんとするところがサラサラとすり抜けてしまう表現でないかとも思う。詩や散文などを読む喜びを知っている人に対してでないと響かないかもしれない。
この点、『池澤夏樹個人編集 日本文学全集20 吉田健一』で池澤氏が勧めている『「ファニー・ヒル」訳者あとがき』の方は分かりやすい。『千夜一夜』の話から始まり、『ファニー・ヒル』(別邦題『ある遊女の回想記』)の開放的な娼婦たちを通して、性や階級に抑圧されずにそれぞれの身分や立場で生きる姿から、読み手も「人間の状態」を取り戻して楽しむことができる、と吉田は書く。そこには「精神の自由」こそ人生で味わうべきものであり、例え「文学」とされるものであっても自由を抑圧するようなものは本当の文学ではないとする筆者の考え方が満ちている。
『日本文学全集20』の巻頭に置かれた『文学の楽しみ』は、より批判性がある。杓子定規な考えが浅はかで危ういものであると非難し、なぜそんな考えが流布しているかを問いただしている。
その批判で素晴らしいと思うのは、まず1点目は、「こういう点は議論になるのでは?」をきちんと想定して論じているところ。たとえば、「定型詩であるからといって言葉は力を失うのでなく、その作詞法の中で言葉は一層言葉になる」と書き、自由詩もその詩人の形に形式を与えられずに自由形と呼んでいるだけのこと、と主張することで「詩も形式に縛られているではないか」という浅い反論を潰しておいて、詩の本質を掘っていく。
2点目は、それだけの網羅性がありながら、込み入った印象を与えることなく、なるほどなるほどと読み手に思わせる、文章の柔らかさがあること。
第5章「東と西」で書いている以下の文から借りれば、花伝書のような文体なのだ。
※芸術哲学 エコール・デ・ボザール(フランスの東京芸大にあたる)で教えたイポリット・テーヌが1882年に発表した美術論集
『言葉といふもの』は今度平凡社ライブラリーから新装で出るそう。もし格言のような文章(詩的な表現ともいえるかな)で腑に落ちない点があれば、ぜひ『文学の楽しみ』も読んでみてください。『文学の楽しみ』の方は、引用も多く、また上記のように話の筋が丁寧かつ読みやすいです(筆者も自ら「説明するのに恐ろしく手間を掛けた」と締めくくるほどに)。
ちなみに、各著作は以下の順に出版された。『言葉といふもの』に収録された1974、75年に書かれた篇は、それまでの著作にあった詩人や小説家などの文章の引用がほぼない。74、75年に書かれたものほど説明を省きミニマルな文章になっている。
「ファニーヒル」訳者あとがき 1965・7
文学の楽しみ 1967・2
言葉といふもの 1975・6
タイトル編 昭和45=1970・4
そのほかは1974・1975に書かれたもの(『説話』は初出不明)
吉田健一著作集24巻 1980・8
日本文学全集20 2015・5
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