Prelude
古本屋の仕事の日は、いつも決まって3時ごろにコーヒーを淹れる。
生豆を取り寄せて、僕が自宅で焙煎をしていて、店主はこの時間を楽しみにしてくれている。
豆を挽いて、フィルターを用意して、湯を沸かす。
抽出している間、手を動かしながらあてもなく考えごとをする。
コーヒーの抽出液を眼で捉えてはいるけれど、頭の中では、「これはどこか遠い大地の血液だ」とか考えていて、気付いた時には抽出しすぎていたりする。
生産者、流通に関わる人、そして木や土、虫たち、水、太陽、もっとたくさんの遠い国のできごとが、僕の目の前で一滴ずつ水面を転がっていく。
今日もやり過ごさず、大切にいただこうと思っている横で、店主が重そうに蓄音機を持ち出してくる。
淹れたコーヒーと果物をいただきながら、レコードを再生する。いくつかSPの題名を確認して、無伴奏チェロ組曲第一番、Preludeをターンテーブルに乗せる。
そっと針を落とすと、チェロの神様、カザルスの演奏が蓄音機からあふれだす。
1900年代前半の、遠い異国の演奏が、当時の空気をまるごと孕んでレコードの溝に刻まれている。
音を聴くのではなくて、空気ごと肺に取り込んで感じるような音楽。
遠い土地の生命が詰まったコーヒーを味わいながら、はるか昔の世界の音を吸う。
僕は毎日のように、古本と古いおもちゃに囲まれて働いていて、あちこち訪ねることはできないけれど、こうして自分の暮らしはささやかながら、一方的であっても、世界と繋がっている。
うれしくなって、何故か知らない人の作ったごはんが食べたくなった。家の近くの町中華に寄って帰る。