不可解的不安たち-「女の子の謎を解く」読了記-
ggrks、としか。どうも、神山です。
秋の読書会も開けませんでしたので、ここで一本記事を書こうかなと思い、「女の子の謎を解く/三宅香帆」を読みました。
不可解的不安たち-「女の子の謎を解く」読了記-
率直に言って、序盤から最後まで、不可解で不安になる本でした。
まえがきはここから
たとえば、いま引用したまえがきの部分にあるヒロイン※批評が少ない、という主張については、ルフィについて語っているのは批評ではなくビジネス書の方が多いと直感する。キャラクターについてはいえば、さくらについて語る批評の方が多いのではないかと思う。但し、引用したまえがきのなかで、筆者は「批評」から「言葉」へフレーズをすり替えている。「批評」については兎も角、より広く「言葉」であれば、ビジネス書や端的な感想ツイートなどを射程に入れて実際の物量を調査することで、ルフィについて語る言葉よりさくらちゃんについて語る言葉の方が少ないという筆者の感じる通りの結果が出るのかもしれない。
尚、Google検索における「モンキー・D・ルフィ」の検索結果は約3,210,000件、「木之本桜」の検索結果は約 2,170,000 件であった。
※ヒロイン:本書においては「物語で活躍する女性」という意味。
勿論、そういった意図もなく、端的に具体的な批評の存在や歴史について、調べがつかなかったのであれば仕方ないのかもしれない。文学フリマやコミックマーケットなどといった即売会のみで頒布されてる同人誌に掲載されているような批評は、オンタイムで追って掲載誌を入手しなければ読めず、あとから知ることも困難である。商業出版されているものでも、書名からはヒロインを取り扱っているのかどうか不明かもしれず、絶版で実物を確認できないという虞もある。
本書は小説や漫画、映画といったフィクションにおける物語で活躍する女性ではなく、アイドルについても述べている。たとえば、アイドル批評について筆者は次のように語る。
アイドル論については、どのようなものが存在するのか、文学フリマのカタログを開くことなく、たとえばAmazonの検索ボックスに入れてみれば、いくらでも商業出版から前例が見てとれる。曲がりなりにも、AKB48批評の旗振り役だったうちの一人、宇野常寛が主宰するPLANETSの有料マガジンに連載を持っているにも関わらず、彼女はアイドルについて現代批評のような形で迫る言葉があってもいいのになとよく思っているのだ。
しかし、本書に対する不安の根本は、ここまで並べたような直感的な価値判断による論述ではない。批評のなかには、直感的な判断を前提に置きながらも、それを補うことができるピースをかき集め、アクロバティックな論理によって接続するものも存在する。そういった批評に対する認識の、検索力の甘さどころはなく、次の一文こそが、筆者に対する不安をもっとも掻き立てるものだった。
「謎が浮かんだとき、過去の批評を漁れば、答えが出てくる」つまり筆者は、謎があったとき過去の批評を参照し述べられている内容が答えになると表明している。そのアーカイブにアクセスできない=存在しない(?)ことに対して疑念を持っているのである。そもそも、自分が思っていることを既に言葉にしてくれているものが批評というわけではない。批評はコンテンツや作品について、背景や枠組みを意識し、理論に基づきながら、一意でないオルタナティブな見方にスポットを当てる行為であり、小説や論文と同様に、一定の約束事のなかで書かれるものである。その手法さえ正しければ、過去に前例がないとしても、尤もらしく正しい批評を書くことは可能である。
また、ヒロインについて語る理由が少ないことについて筆者は、少女漫画や女性主人公の小説やアニメについて語る男性批評家がいること、女性の研究者や書き手がいることに留保しつつも、結局のところ批評の語り手に男性が多いことが原因と言う。ここで男性が批評するのは少年漫画や男性キャラクターについてであり、ヒロインについてではない、とミスリードする。
更に、批評の物量が重要と言及する。
批評は、たくさん語られることで「本当のこと」にたどり着けるものなのだろうか。批評と呼ばれる文章が大量に生産されることで、より尤もらしい解釈や核心を得られるのかもしれないが、前提としてそれぞれの批評がある程度の正しさを備えていなければならないのではないだろうか。
つまり、筆者は、世界にある個々の批評それぞれの正しさを信じているのだろうか。筆者は、自身の批評の正しさを検討したのだろうか。これがまえがきの時点で抱えてしまった不安である。
全三部に区切られたそれぞれの批評・評論については、いまでは一般論的な内容のものもあれば、現代だからこそ語れるものもあったと感じる。欲を言えば、それぞれのコンテンツについてもっと深掘りし、ワンアイデア頼りではなく、外部に存在するであろう論拠が出せれば、もっと核心を突いたものになるものもあった。既に筆者のことを信頼している読者であれば、こういった不安を持たないのかもしれない。しかし「本当のこと」は既にどこかのだれかに存在するはずだ、それを膨大な論述によって検索可能とすべく人々にヒロイン批評せよ、と要請する態度によって、筆者の批評そのものが信頼できなくなってしまっている。
筆者はあとがきで「批評」が好きだった、世界観がひっくり返る瞬間が好きだと言っている。であるならば尚更、ライトな面白さで、バズる文章と手法で、批評への感動を揺るがさないでほしい。批評の力を信じてほしい、批評家を信じさせてほしい。そもそも筆者を信頼できなければ、論文とも小説ともつかない批評という形式はちからをもたない。検索不可能であっても、たとえ読み手が自分以外のたった一人であっても、批評はあらゆる創造物と同じように、誰かの世界を変えられるはずなのだから。
と、勢い込んで様々抑制しながら書きました。僕が男性であり、同年代とはいえ女性の書き手に対して、何かを言うというのは構造的に危ういことを自覚しながらも、やはり、敢えて言いましょう。
まえがき中の「全日本ヒロイン批評本を増やそう連盟会長として」というフレーズがふざけているのではなく、この本それ自体が「ふざけている」と評される可能性すら高い本だと感じました。
批評の書き手ではないにせよ、読者として、あまりにも過去の蓄積をおろそかにしていると思いました。あとがきで「批評っぽい文章」と書いていますが、それすらも逃げの一手なのでは、とかなしい気持ちです。コンテンツに対してと同じくらい、批評について真剣に、思いを巡らせてほしい。
ではでは。