「分断と闘う政治」の欠陥 ― 分断の中の分断
求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。(マタイ 7.7-10)
コロナ禍に揺れた 2020 年の年の瀬に、そぞろ街を歩いていたら政治家のポスターを見かけました。そこには「分断と闘う政治」と大きく書かれていました。なるほど確かに、日本における相対的貧困率は 1980 年代半ばからの 20 年で 4 ポイント程度上昇し、格差・分断が拡大したと解釈することができます。
1.経済的貧困について
「ジニ係数」とは、ローレンツ曲線と均等分布線に囲まれる弓形の面積を均等分布線から下の三角形部分の面積の商として求められる数のことで、数字が 1.00 (100%)に近づけば近づくほど富が偏在していることを表します。つまり、所得格差が大きいことを示す係数のことです。
2012 年頃の相対的貧困率のジニ係数は、中国が 28.8% で、ブラジルは 20.9% 、インド 19.7% で、アメリカは 17.2%、日本は 16.1% (国民生活基礎調査)となっています。合わせてフランスは 8.5%、ドイツは 8.4%、オランダは 6.9%、フィンランドは 6.5 % となっています。
ここで日本の推移を見てみると 2000 年が 15.3% 、2003 年が 14.9% 、2006 年が 15.7% 、2009 年が16.0%、2012 年が16.1%と上昇し続けています。
主要国の中で、日本の数値はどちらかというと高くなっていますが、半分ほどのドイツやフランス、オランダにおいても、この20年ほどで数値が大きくなり続けていることには注目が必要となります。すなわち、福祉や再分配の制度が充実している国でも、低所得層の所得は減り、高所得層の所得は増え続けるという世界的な傾向があるということです(もっとも、このような時に参照される日本の所得再分配調査や国民生活基礎調査、全国消費実態調査などは数値におおきな差があるため、精確な把握が難しいのが難点です)。
中でも日本は、政府による再分配政策が社会保険などが中心となり公的な扶助(貧困者の経済的救済)の比重が ― 世帯ごとにカバーする仕組みもあり ― 限定的となっており、社会保障がセーフティネットとしての機能を果たしづらい構造となっていると指摘されます。そのため、一度、貧困に陥ると経済的上昇の可能性に乏しいというのが現況です。ただし、日本のトップ 1% の高所得者の所得は 1960 年代から 2010 年代と長期にわたり全体の 6~8% で推移しており横ばいになっています。にも関わらず、ジニ係数が上昇しつづけているということは、低所得者層がより得られなくなっているということを示唆していることになります。
以上より、日本における経済的な分断は、高所得者層に顕著な所得変動がないが、それ以外の所得者層が相対的に所得を低減させていることが問題と言えます。つまり、低所得者層と一部の中所得者層が所得を減らし続ける、シュリンキング(縮減・縮小)の状況にあることが問題なのです。
このように、確かに日本には経済的な意味での格差・分断が相対的な意味でこれまでより顕著になっていることが分かりました。格差社会の中で、下層に位置する人々は生きていけないような窮状にあることも指摘されています。それだけでなく、2020 年のコロナ禍によりその傾向に拍車がかかることが予測されますから、経済的な格差や分断といった問題を解消することの重要性は日増しに高まっていくでしょう。
2.格差解消の是非
さて、ところで、格差が存在していることはなぜ良くないのでしょうか。ここまでの記述には、「格差があるのはよくない」「分断が生じているのはよくない」という信憑が根底にあります。しかし、では、なぜ格差があるのはよくないのでしょうか。重要なポイントです。
というのも、人間はすべて同質で均等で階級的に平等の中に生まれるわけではありません。ですから、格差があるのは、当たり前とも思えるのです。こんなことを言うと、「がんばっていても、生きていけないなんてあっていいのか!」と鼻息あらく問うてくる方もいますが、お待ちください。そういう話をしているのではありません。それに、この怒号を反転させてみると、がんばっていない人が生きていけない社会はいいのでしょうか、という問が生じます。近代からの人間の歴史を見れば分かる通り、人間は生まれ落ちたその瞬間から、社会からその生を言祝がれ、守られる存在となっています。というよりもむしろ、弱者であろうと強者であろうと、守り合いながら生きていこうねと制度をつくってきました。この価値観に立脚すれば、後者はよろしくないという話になります。
前者はどうなんだろうと考えてみると、当然、がんばりの有無に関わらず保護されるべきということになります。ですから、前者みたいなことがあってはいけないのは、その通りなのです。それに、時々「がんばっても報われないなんていいのか!」という人がいます。いい感じはしません。ただし、報われないことと生きていけないことには、論理的に大きな違いがあります。後者は、生命の危機に関する話ですから、現代的には許容されることがなさそうです。しかし、がんばりが報われない問題についてはそうとも言えません。というのも、社会的に評価されるかどうかは、時世に左右されることもあるからです(イチロー選手がいまと同じ能力を備えて 1,000 年前にタイムスリップしたら、野球選手として評価されるでしょうか)。
さて、本題に戻ります。生きられないほどの困窮や格差が許されないのは、現代社会に生まれた人間はみんなが協力して生きていこうと取り決めをしたからでした。では、生きられはするけれど苦しいという生活を強いるような格差もよくないのでしょうか。実は、ここにはいろいろな議論があります。「そんなの本人のがんばりが足りないからでしょ」とか、「自己責任でしょ」とか、「生まれた時から下層にいる場合、それは貧困を強いられていることになるんだから、救済しなきゃだめだ」とか、本当に多様な考え方があります。正直なところ、筆者はそれぞれの主張は、それぞれに説得力があるなぁと思います。注意して欲しいのは、それらの考え方は向いている方向が違うのであって、正しいとか間違っているとかではないことです。
たとえば、伝統的なリベラリストは、生まれた瞬間に両親の属する社会的階梯によって格差社会に位置づけられるとすれば、それは本人の意志や徳に関わらずのしかかっている負荷だと考えます。そこから這い上がる方途が乏しいのであればなおさらです。ですから、この場合には、社会保障などの政策的手段を用いて是正しないといけないと考えます。
一方で、これに反対の立場のひとは、社会的な格差を認めつつも、自助によって状況は改善できると考えています。ですから、市場や社会に政策的に介入することなく、できるだけ各人が自由に動ける状態を確保することで、格差から脱出する自らの努力による改善の幅をひろく保っておき、窮状から這い上がるチャンスをつくろうとするでしょう。
前者は、格差の中にいる人間は自由に活動することができないと考えて、自由を確保するために再配分をしようと考えます。後者は、富裕層から多くお金を集め(収奪なんて言ったりすることもあります)て、困窮層に配分することは、①富裕層の資産を徴収することで富裕層の自由を奪っている、②再配分を行うと困窮層ががんばらなくても生きていけるため、闊達に活動する意志がなくなり、結果として自由を奪うことになると考えたりします。本人が自分を伸ばしていく機会まで奪ってしまっているということです。
このように並べてみると確かに両者の言っていることは、それぞれ確からしさがあります。二度目になりますが、向いている方向が違うために折り合いがつかないのです。
3.イデオロギーの束縛
このように、格差を是正すべきと主張する人と、そんなことしなくていいと主張する人は、それぞれに考えがあって発言しています。この発言の土台にある考えのことを、イデオロギーと言います。「イデオロギー」とは、思想とも訳され、人間の行動を左右する根本的な考え方のことです。このようなイデオロギーを持っていると、救済するかしないかという二元論で行動を決定することになります。
しかしながら、現実的には、両者の落としどころは、ちょうど中間くらいにあると思いませんか。たしかに、生まれながらに貧しいと満足に勉強はできない(だから義務教育があります)し、健康状態も悪くなってしまったりして社会的上昇の機会を得られないことが想定される(皆保険制度はこのためにつくられています)ので、なんとかしなきゃいけません。でも、せっかくがんばってたくさん稼げるようになったのに、所得をあまりにもたくさん税金として持っていかれちゃうのもなんだか嫌ですよね。
ですから、貧しい人にはできるだけ援助ができるように、そして豊かな人からはできるだけ税金をとらないようにするのが望ましいと言えそうです。だからこそ、ポイントになるのは、これらは原理の問題ではなく程度の問題なのだということです。言い換えれば、A と B のどちらの考え方が正しいかではなく、どちらの考え方でも納得できる線引きはどの辺りかを探るのが、この分断・問題を解決する際の実相なのです。
固定のイデオロギーをもつと、現実は程度の問題であっても、原理の問題に陥ってしまうかもしれないことが難点です。私たちにとって、みずからの行動の規矩として一定のイデオロギーを持つことは大切かもしれません。ですが、これまで見てきたように、本当に困っている人がいるのであれば―それも生死に関わることであれば―イデオロギーなんかへの一貫性なんて必要ないのではないかと思うこともあります。
4.「分断と闘う政治」の理解
遠回りしてしまいました。政治家が掲げるキャッチコピー「分断と闘う政治」について話しているんでした。この言葉の意味として考えられるのは、
①分断を是 / 非とする勢力とたたかう政治
②分断を解消するための政治
のふたつだろうと思います。政治闘争としては前者が考えられ、政治運動としては後者が考えられます。
(1)分断を是 / 非とする勢力と闘う政治
さて、分断の是非を問う政治ということですが、上記で記載したふたつの種類のまたはその類型的な考え方をもつ論敵と対峙して経済的な格差を是正しようとする姿勢だろうと考えられます。すでに述べましたが、経済的格差をよしとする考え方も、ダメとする考え方も、原理としてはそれなりに確からしさがあります。ですから、A か B かと考えることはおすすめできません。というのも、この場合、発生するのは分断の解消ではなく、分断の発生だからです。いずれかの思想を掲げ選挙を行うとすれば、候補者は A か B かいずれに属するか旗幟を鮮明にする必要があり、また有権者は A か B かを選択しなければならなくなります(両方に 0.5 票ずつとかできたらいいですね)。したがって、経済的分断を解消するために思想的分断が生まれることになります。
こうなってくると、収拾がつかなくなってきます。スペインの哲学者オルテガは「私とは、私と私の環境である」と述べました。つまり、私がどのようなものかを決定づける要素は、①私の意志と②私を取り巻く環境だと言うのです。私の意志は、生きてきた環境から影響を受け、また環境は私がその中でどのような意志をもって行動するかによって変化しうるという無限的な入り子構造になっています。言い換えると、私とその環境も相互影響的に構成される「私」という現象なのです。ひとりの人間の考えと行動は、意志と経験の総和なのです。
ですから、ある人が信奉する価値観(意志の土台になるもの)に対し、NO を突きつけると、その人が存在している環境に対しても NO を突きつけるおそれがあります。こうなると、やっぱり折り合いはつきません。大切なことは、両方の考え方のいいところと悪いところを突き合わせて、ひとつの実的な方針に変えていくことです。かっこうよく「止揚・揚棄」なんて言ってもいいかもしれません。
(2)分断を解消するための政治
さて、次は、分断を解消するための政治です。分断は、ふたつ(もしくは類的な多様な考え方)の衝突によって起きています。二元論的に両者の間にデジタルな境界線を引くとうまく行きそうにないことはすでに書きました。分断を解消する際に必要なことは、ふたつの基本的な考え方の違いを念頭に、知的に転回することになります。
となると、どのような営みを期すればいいのでしょうか。おそらく、両者がせめぎ合っていい塩梅を探ることによって、あらたな形で実的な展望が開けてくるでしょう。あいまいな言い方ですみません。
でも、経済的分断を解消したいのであれば、人びとの行動の土台になる考え方における分断を発生させない形でアプローチしなければ、念願はかなえられないのです。(1)のように仮想敵がいるかのようなマインドになれば、経糸と緯糸は織り合うことがないでしょう。ですから、「分断と闘う政治」という表現では、分断の解消は願うべくもないでしょう。
5.バックにある分断
というのも、「戦う」という単語は、単(盾を持っているさま)と戈(矛を持っているさま)を持って争うことを意味し、勝敗をはっきりさせることを目的に争うことを指すようになったものです。
次に、「闘う」という単語は、鬥(手を上げて相手の髪をつかみあう形)の構えの中に、斲(長方形の盾と斤・斧をもつさま)が収まっていることから、たたかうことを意味します。これが転じて、相手の力につぶされないように抗うことを指すようになったのです。
ですから、どちらの表現を使おうと、そもそも二項対立図式が包含されており、分断構造をバックにもった発想になってしまいます。繰り返しになりますが、貧困や格差といった分断の問題は、政治闘争の問題ではなく、人間の生死の問題です。生と死の対立は、最後にかならず死が勝利を得るという、生きる者にとっては必敗の戦いなのです。人生を生と死でとらえると必ず後退戦になります。あなたもわたしもそうです。こんな悲観的な見方をする必要はないかもしれませんが、この後退戦の戦列にともに並ぶ仲間にあなたはパンを与えますか、石を与えますかという話です。
私たちは、奇蹟を起こすことができません。石を投げてパンにかえることもできません。ですから、仲間に石を投げても救うことはできません。そして、これはあなたが、そして私が、後退戦の最終盤に差し掛かった時に、仲間からパンと石のどちらを与えられたいのか、という将来を先取りした物語なのです。あくまで、わたしは、石を打擲されたくない方が多いのではないかと推量します。であれば、社会システムを弱者ベースにしておくことで、可変的な”人間”という状況・現象を守ることは、自らの生を賦活することにもなり、価値があるのではないかと思うのです。
6.最後に
ここまでお読みくださりありがとうございます。気づいたら、7000 字強になっておりました。ここで言っていることはそんなに多くありません。
ほとんどのことは原理の問題じゃなくて程度の問題
これだけ抑えていただければ十分かもしれません。
なんとなく格差が拡大していることを実感していただくために、掲載したこともあり統計値の収載年に幅があり、また詳細に検討していないことをお詫びしておきます。また全体として意見について記述した記事ですから、上述の考え方が正しいと言っている訳ではないこともお断りしておきます。
前もって構成をつくらず、思いつきで書き始めて、着地するのか不安だったのですが、なんとか不時着(?)くらいはできたように思えます。実は、前文に引用したマタイの福音書ですが、ジニ係数の説明を書いたところで引いとくかと書いておいたものでした。まさか結論部で活きるとは思ってもみなかったので、驚くばかりです。過去の私が、結論部を書く私を想像的に看取していたのではないかとすら思います(たまたまですけどね)。さて、では最後にまたマタイの福音書の一節を引いて結びとします。
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。(マタイ 7. 13-14 )
※上記の文章は引用および画像を除き著作権フリーです。ご自由にお使いください。
― 参考文献 ―
・オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』ちくま学芸文庫
・『新約聖書 新改訳2017』いのちのことば社
・森口千晶「比較経済史にみる日本の格差日本は「格差社会」になったのか」(https://www5.cao.go.jp/keizai2/keizai-syakai/future2/20200415/shiryou2.pdf )
・平成26年全国消費実態調査(https://www.stat.go.jp/data/zensho/2014/pdf/gaiyo5.pdf )
・井上誠一郎「日本の所得格差の動向と政策対応のあり方について」(https://www.rieti.go.jp/jp/special/af/data/060_inoue.pdf )
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