日本料理とインド料理の構造分析【生のものと火を通したもの】
人間は料理をするが、料理こそが人間と動物を区別する象徴的行為である。
最近京都で日本料理のお店に連れて行ってもらうことが多いが、その度に日本料理のことをあまり知らないということを実感する。そもそもインド料理の選択肢が本当に少ないというのもあるが、京都で料理関係者の方と食事に行くとだいたいインド料理以外になる。
ただ、オーセンティックへの敬意や、技術へのストイックな姿勢、素材への気の配り方、サービスや演出においても東京にはない(もしくは東京では自分のような人間には見えなかっただけかもしれないが)お店が本当に多く、しかもチャリでいける範囲にコンパクトにまとまっているのが良い。
インド料理と日本料理はどのように違うのだろうか。また、それを直感的に比較することはできるのだろうか。構造主義の祖であり食の人類学研究でもまずはじめに名が出てくるレヴィ=ストロースを引き合いに出しながら考えてみた。
人類学的な食文化研究は、自然環境や地理的要因の観点から食文化を語る環境論的・唯物論的な立場のものと、機能的構造主義的立場に大きく分かれる。前者は政治経済的な要因も含めて物質的な現実から語ろうとするものであり、例えばマーヴィン・ハリスの「文化唯物論」などが有名。インドでヒンドゥー教徒が牛を食べないのは経済合理的なものであり、食べてしまうと農業生産の効率が下がったり乳がとれなくなるからだという唯物論的な視点で説明している。(どうなんでしょうね、それだけで説明しきれない面も多いと思うけど)
レヴィ=ストロースは言語や神話の分析を通して食物の意味や社会的機能を説明する後者の立場で研究を進めた。つまり、人々は文化、アイデンティティ、宗教、社会的な象徴としての役割を食に与えているという立場。彼は食そのものを研究したのではなく、食べ物を自然から文化に変える「変換」を可能にするものが料理であるという、一種の比喩として料理を使ったのであるが、後の食に関する文化的分析に大きな影響を与えた(メアリー・ダグラス、シドニー・ミンツ、ピエール・ブルデューなど読まないといけないやつがたくさんある…)。
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