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SNSが嫌なのではなくて、向いていない表現方法を選んでいただけだった


24/10/18追記 Xのアカウントを消しました


ということに最近気がつきました。
こんにちは。

どうやらnoteで36記事執筆を達成したみたいので、これはおめでたいということで、ここらで思うことを書いておきます。
ちなみに、何がおめでたいのかも、なんの区切りなのかもわかりません。


140字で表現したいことがない

昔からずっと、Twitter(X)をはじめとする短文型SNSはなんだかしっくりきません。

あの字数で一体何を表現すればいいのだろう。

こんなことしか言えませんでした。

短文でどうやって他者と交流すれば良いのかわからなくて。
そんなちょっとのことで誰かの”人となり”がわかるわけないし、奥深い人だなぁと感じることもできない。
素敵な人かどうか判断する余地すら与えてくれないというか。

「これはこう」と書いてあっても、詳細がわからないし、その背景にある感情の判断ができません。もっと知りたくても、そこで強制的に終わってしまう。

他にも、短文をはじめとする、そういった即効性のあるものに慣れすぎてしまうとそれ以外のことに目を向けることができなくなるというか。一般に長文を読んだり書いたりするのは結構頭を使うことであると思うので、それはつまり何かをじっくり味わうということであり、そういった能力や感性を失ってしまうのは怖いよな、と。

昔はみんな一つの本に向き合ったり、難解なものに粘り強く取り組んでいたりしたはずです。いつのまにかその感覚を忘れているだけなのではないかなぁと。

SNSに限らず、対面の人間関係であっても僕は上っ面だけの八方美人的なつながりが嫌いなので、あまり積極的に他者と交流したいとは思いません。

ところで、実は過去にTwitterアカウントを作っては消し、というのを誇張なしで8回ほど繰り返しています。

それは見る専用のものだったり、以前やっていたWordPressブログの告知用だったり(結局何も宣伝することなく終わった)。
ちなみに鍵アカウントを作って虚空に呟く、みたいなことはやったことがありません。

なぜ作っては消し、ということを何度もしたか。
それは

「何を言えばいいんだろう」
「とりあえずアカウントはあった方がいいのだろうか」
「だけど使いもしないアカウントを持つの嫌だな」
「いやでもマーケティングの機会が減るのは勿体無いな」
「何言えばいいんだろう」
「とりあえずツイートしてみた」
「全然伸びねぇ…」
「もっとちゃんと考えて言ってみるか」
「伸びねぇ…」
「あぁ、これを考えてる時間で他のことができたはず」
「…」
「あああああああああああああああああああ」

といった葛藤?の連続で。

今はもう、個人用もこのphilosofy用もまとめて1つのアカウントです。

ここに落ち着きました。
(ちなみにほぼ見る専みたいになっています。最近はペーパーマリオRPGが神すぎたので勢い任せに連投しただけ

というか、Xに限らず、他のSNSに関してもphilosofy以外のアカウントを一切持っていません。

リア友をフォローしたりとかもしていません。話題は直接会った時にコーヒーでも飲みながらじっくり話した方が圧倒的に楽しいので。せっかくの会話のネタをSNSで消費してしまうのは、すごく勿体無い。
そう、可能ならば、僕はこのnoteで繋がっている人や、面白いと思っているクリエイターの人たちと、じっくり話をしてみたいのです。友達になれる人とは友達になりたい。

しかし!一応匿名でやっているので、それは今のところ考えていません。
いつかは音楽活動のほうとも合わせて、もっと地名度が上がったら顔出しはせずにYouTubeライブで雑談配信でもやろうかなぁ、なんて考えています。

note、好きだなぁ

Twitterに良い印象がなかったせいか、他のSNS関係もまとめて嫌っていました。というか、SNSにハマっている人そのものに悪い印象を持っていました(これは今でもTikTokに関しては無理、後述)。

でも、それはコミュニケーション手法の違いということであって、短文でのやり取りが好きな人もいるだろうし、写真での交流が好きな人もいるし、それぞれの手段が違うだけであって。

そしてそこに僕はハマらなかっただけで、noteに出会ってようやくSNSの面白さに気がつけたというわけです。それ以前にYouTubeで楽曲への嬉しいコメントを頂いたときもそうだったかも。

絵でもなく、写真でもなく、140字でもなく。
長文が僕にとって最も扱いやすい媒体でした。そして音楽。

で、ショックを受けました。
「こんなに楽しいことを皆やってたのかよ!?」と。

どういうことかというと、 

  1. ただひたすらに書くことが好きだから、文章を書く

  2. それをnoteに投稿する

  3. スキをもらったり、コメントをもらったりする

「嬉しい!!」

みんなXやインスタでこんなにほわほわした気持ちになってのか、おい!
みたいな。
それを知らずして生きてきたのは、すごく勿体無いことをしてきたなぁと感じているわけです。

もちろん、先に述べたように楽曲への高評価やコメントも、ものすご〜く嬉しいです。
しかし、音楽を作る方が大変なんですよね(僕は)。そして労力の割に、いただける感想や評価が芳しくない傾向が強いです。

曲は量産できないから人目に付きづらいし、そもそもそういった芸術作品は受け取る人の感受性に大きく影響されるものなので仕方がないのかもしれませんが。

文章を書くことが最も楽に表現できる

もちろん、散文であっても評価にバラツキがある

のはそうなのだけれども、ある程度現実のテーマに沿って書いているし、そして何より文章を書く方が楽曲制作より圧倒的に楽です。なぜならただ日本語を書けばいいだけなので。

僕は日本生まれ日本育ちの日本語を母語とする人間で、何をするにも日本語で思考をし、文字を読み書きし、人と会話をします。周囲の人間関係もほぼ全員似たような日本人なので、当然ながら日々日本語にまみれて生きています。

幼少期に外国語教育を受けたこともありません。英語は大学受験のために勉強したくらいです(2年前TOEIC604点)。大学に入ってからはちょびっとだけスペイン語をやりました。簡単そうだったからです、すんません。

…なので、日本語を扱うことはあまりにも自然で、いとも容易いわけです。

ちょうど今「読み書き」について触れましたが、22年間生きてきて、言語表現の中でも特に、自分にはテキストメディアがあっているのだなぁということも理解しました。

対面で人と会話をすることは好きですが、どんなに親しい人であってもその後は疲れます。
何かを学習するときもYouTubeなど動画メディアを視聴するよりも、書籍を読んだ方が圧倒的に早く内容を読み進められるし、理解も早い。

そして大勢でわちゃわちゃするよりも、家にひきこもって一人で本を読んでいる方が圧倒的に満たされるので、こういう結論になりました。

そして最後にこれは完全にただの自慢ですが、浪人生の頃、冗談抜きでほとんど何も勉強していないのに河合塾全統共通テスト模試で現代文の偏差値が64だったので、やっぱり適性あるのかなぁ、なんて思ってます。
この言い方は好きではないですが、高校はBFで、浪人生になるまで人生でまともに勉強した記憶がありません。でも、現代文はできました。

過去ではなく、いつまでも「今ここ」を誇れるように生きていきます。

好きなことを続けて、そして同じ気持ちの人や、意見をくれる人がいるのはこんなに楽しかったのだな、と。良い人はたくさんいるし。
読んでくださっている方はどうもありがとうございます。曲を聴いてくれている方も。

世界は広いですね。
自分ではそれができたと思っても、全然できていなかかったりすることがあって。それをこうしてインターネットで学んでいます。ありがとうSNS。

ちなみに。

実は、「140字で表現したいことがない」で述べたWordPressブログを運営していた時代、そのブログを消した後にnoteに移行し、「Twitterやめました」という記事を書いて、スキを48個くらいもらったことがあります。

でも、続かなくて、そして使いもしないアカウントを持っているのが嫌で、そのnoteのアカウントも消してしまいました。

ブログ、note、新ブログ、note(今ここ)

3つ目の新ブログも消してしまって、文章表現媒体はこの場所が四回目なわけですが、ようやくここへ辿り着きました。このphilosofyは、人生で二度目のnote。
なんかメタいですね。以前の僕とphilosofyの僕。うーん、不思議な感覚。

そもそも当時は「執筆を極める!」「音楽制作を極める!」といったような明確な目的は一切なく、ただなんとなく行なっていただけなので、まぁなかなか続かないよね、と。

しかし今はもう、新しくアカウントを作り直したり消したりすることはありません。
なぜなら明確な目標があるからです。
あとは、成長して書けることが増えたから、ということもあります。

以前のブログやnoteは高校1,2年~浪人~大学1年あたりに運営していたのですが、当時はあまり本を読んだり、あれこれ思考していたりしていなかったので、世の中に対して言いたいことや表現したいこともさほどありませんでした。

その後本の虫になって、人生の意味について頭がおかしくなるほど考えて、音楽制作に出会って、

noteの執筆を本格的に始めてみて、と。

思いもよらぬ意外なところから道は開けてゆくものですね。

音楽はどうやら外国語っぽい

現代文の話はここらへんにしておいて。

音楽は外国語のようなところがあって、あってというかまさに外国語そのものだなぁと感じています。
だって、超一流のピアニストの人とかは、3歳くらいから大人になっても今この瞬間も、ずっとピアノを弾いてきたわけじゃないですか。それはまさにバイリンガルのように。

僕も過去に6年ほどピアノをやっていましたが、今はもう弾けません。これもまた、外国語を日常で使わないとどんどん忘れていくのと同じ感覚です。

現在キーボードは弾けますが、しかしピアノに関しては、たとえ今から練習を再開したとしても、果たして昔の感覚を取り戻すことができるのかはかなり怪しいです。

そんなこんながあって、現在行なっている作曲や編曲の何が好きかというと、それは文章と同じで、いくらでも書いたり消したりできるところです。

会話や楽器演奏はリアルタイムに行われることであるのに対して、執筆や作編曲はそういったものは全く求められません。
自分の気が済むまで、いくらでも細部を細かく突き詰めていくことができます。それがどうやら僕にはものすごく向いているようでした。

なので、文章と音楽を作ることはどちらも好きだし、そしてこの2つのシナジーはとても高いと感じています。

5月に入ってからなんとなく思いつきで始めてみた、自作曲について自分で解説する

シリーズ。

これまで楽曲制作にあたっては「これはこうでこれがこう」といったことは考えずに、全てなんとなくで作っていました。
それは雑に何も考えずやっていたということではなく、確かに「こんなものを表現したい」という思いはフワフワ、時によっては怒りとして胸の内に抱いていました。

でも、ライナーノートに書いたような明確な日本語テキストとしての言語化された感情はなく。

そもそも、なぜ音楽、文章が好きかというと、それは

  • 言葉では表しきれないものを曲は表現することができるから

  • 曲では表しきれないものを言葉は表現することができるから

です。
対比であるものの、両者のカバーする領域は同じではありません。

それは重なっている部分もあれば、全く重なっていない部分もあります。数学Aでやったベン図を思い描いてもらえればと思います。あれが無限の伸縮性を持っている感じです。
無限というのは、全てを見たわけではないし、人生の中で芸術の終わりまで見ることは決してできないと思っているためです。

そして批判したいわけでは全くないのですが、ビジュアルアートなどとは違って、テキストと聴覚からの情報は創作者と受け手の相性次第でどこまでも想像を広げることが可能だからものすごく好き、ということがあります。
わかりやすさという点では便利なのですが、視覚はどうしてもそこに囚われてしまいます。

で、今はまだ音楽という外国語を日本語ほど上手く扱うことができないので、だから大学で学ぶわけです。

文章執筆、音楽制作、そして大学で理論を学ぶことで、最強の掛け合わせ効果がかなり期待できそうだぞ、と目論んでいます。

具体的なことを言うと、自分で小説を書いて、それに音楽を合わせたストーリー進行形式の作品を生み出してみたいのです。ちなみにプロットは日々iCloudメモに書き溜めています。

TikTokは嫌いだ

ここまで綺麗にまとめてこられたので(自画自賛)、「SNSに貴賎はない!」と言いたいところですが、しかし!

TikTok。
お前は好きじゃない。

言いたいので言いますが、なんかあの「頭悪そう感」がどうにも受け付けません。あ、僕のことを叩きたい人はどうぞご自由にお叩きください。

  1. 可愛い子や”ウェイ”が謎の動きをしている動画を見る

  2. 次から次へとそれが出てくる

  3. 「…で?」

何も得られないし、何が面白いのかさっぱりわからないので嫌です。

もちろん、芸術表現の領域としてのダンスや身体アートを批判したいわけでは一切ありません。毛頭ないです。

ではなぜTikTokが嫌かというと、そういうちゃんとした身体芸術を何もわかっていなさそうな世間知らずの若造が、ただ自己顕示欲に突き動かされるままに軽率に自身を曝け出しているからです。

専門的なことを学ばずに表現することがダメだとかそういうことが言いたいのではなくて、誰もが等しく何かを表現する権利を持っています。

なんだろう。何が言いたいんだろうな。

あ、今これを書いていて言語化できました。

そう、そこには芸術への愛や情熱を感じないのですよ。表現するということは、ただ闇雲に被写体をカメラに収めればよいということではありません。

そもそもなぜそれを表現する必要があるのか、そしてそれは本当に最適な表現手法であるのか、誰にどう届いてほしいのか、そこに独自性はあるのか。そういったことを考えなければならない。

自分で言うのもあれですが、僕は日々そういったことを考え、そして過去の自分は音楽制作に関して「ただ適当に音を並べただけ」ということをしていたため、それと重なってしまって嫌だな、それと同じにされたくないな、ということなのかもしれません。

以前、

しかしなんだか不穏な空気のアカウントとかもあるんですね、noteにもやっぱり。
それは、
画像はもちろん、文章、何から何まで生成AIで作成したような、個性はかけらもなくてそこに一切の情熱を感じない、「あんた誰すか?」と真正面から言いたくなるような金儲け特化アカウント、のようなものです。

ということを書きました。

そうです。またわかりました。
僕は人生で目にするありとあらゆることに対して、

  • 何故、それはそうなっているのか。そこに明確な意味はあるのか。

ということが気になるのです。それは車やコンピュータの仕組み、社会制度、人間心理、宇宙の歴史、何から何までそうです。

なぜなのか、何の意味があるのか、そしてどうなっていくのか。
ただひたすらにあらゆる物事が気になって仕方がないのです。

万物の意味と理由を知りたい。これこそが僕を日々動かす原動力です。でも、もちろん人間なので寿命があります。あと残念ながら脳みそ的にもそんな期待できません。
ある時これに気がついて絶望しました。だから、創作に逃げ道を求めることになったわけです。

そして自分ではこれは当然だと思っているのですが、会話の中で場合によっては詰められていると感じる人もいるようなので(これには驚いた)、他者に無用な危害を加えないためにも、一人で完結できる音楽と文章は最適でした。

やった。スッキリしました。これを書いている中でただ「TikTokきらい!!」と子どもみたいな着地点になったらどうしたもんかと焦っていたので、なんとかまとめることができてよかったです。

真面目な話、TikTokをやることによって宣伝効果は高まり、認知度は上がるでしょう。

しかし、そもそも価値観が違いすぎてあのマーケットに僕の価値観が届くとは全く思えず、また「philosofy」というブランドの価値を毀損することになりかねないので、マーケティングの観点からも成果が見込めないということでやりません。

22歳老人なう。今後とも4649!

面白い画像を見つけました。

https://qph.cf2.quoracdn.net/main-qimg-092680e0aac660d9aad7af0ce3675f87
アイキャッチもこちらより引用させていただきました。

Quora、なかなか楽しいのでたまに見ているのですが、毎度そこの回答の質の高さに驚かされるばかりです。

僕ももうちょっと歳を重ねて人に何か言えるような人間になったら、アカウントを作ってみようと思っています。もちろんphilosofyとして。

このような構造によってTikTokに投稿されるコンテンツは「老人が嫌うようなコンテンツ」がウケる状態になります。

https://jp.quora.com/Tik-Tok-ティックトック-から感じる-あの知能指数の低さは

そうなったら、上の画像でいうといよいよ僕も老人ですね…

まぁいいや。
歳をとるのも悪くない。
というかむやみやたらに若いのは疲れるからもういい。

...すでに歳か。

以上、パソコンでnoteを書いている22歳老人でした。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

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philosofy
(´・ω・)つ旦