正常ほど不気味な発狂はない【読書から得た雑感】
最近の読書から得た雑感を記す。
健常とは、目安に過ぎない
この一節を読んで「健常」という概念に再考の余地があると感じた。
神経科医であるサックスは、患者を通じて脳の「可塑性」を強調している。何らかの能力を失っても、我々の脳は他の感覚を補強し、新たな常態を生み出す。この脳の適応力を考慮すれば「健常」というのはただの目安であり、絶対的な基準ではないように思える。
例えば、視力を失っても、聴覚や触覚の能力を補強することで適応できる。目から脳への情報入力が途絶え、視覚に関する脳領域が使われなくなると、その領域を他の情報(聴覚や触覚)を処理するために割り当てる。その結果、音で周囲を把握する能力や、点字でコミュニケーションを取る能力が向上する。
このような適応を経て、元の状態とは異なるが、新しい「常態」が形成される。この新しい常態が「非・健常」とされるのは、客観的な基準によるものに過ぎず、当事者にとっては今の自分こそが「健常」なのだ。
遺伝的多様性と常識について
19世紀のアイルランドで起こった「ジャガイモ飢饉」は、生物的多様性の重要性を痛感させる事例だ。アイルランドでは収量の多い特定のジャガイモ品種に依存していたため、疫病が広がった際に壊滅的な被害を受けた。一方、アンデス地方では多様な品種が栽培されていたため、特定の疫病による被害を回避できた。
この事例は、生物的多様性が生存可能性を高めることを示している。同様に、人間社会でも、常識とされる行動や考えに固執せず、非常識を許容することが、人間社会の健全性・持続性を保つ上で重要だと考えられる。常識に従うことだけが正解ではなく、非常識とされる行動もまた、人間社会にとって有益なのだ。
なお「ジャガイモ飢饉」は生物学者の池田清彦氏の書物で知った。
自分の考えを肯定する
常識に反していようと、自分に固有な感受性に基づく発想は尊重されるべきだ。村田沙耶香『消滅世界』の一節が、これを象徴している。私の読書メモも併せて紹介する。
常識は変化している。例えば、今の時代は「学校を卒業したら正社員になること」が一般的とされている。しかし、これはほんの最近の傾向だ。かつては農業などの家業を継ぐのが、当然の選択とされていた。
新たな行動様式が生まれると、それに追随する人が増え、やがて常識化する。しかし、この変化に迅速に適応できる人々や、まだ支配的な行動様式(現時点での常識)に適応できていない人々は、その適応速度が平均から外れているため「非常識」とみなされることがある。常識人とは、たまたまその時点の行動様式への適応速度が分布のピーク付近にある人々に過ぎない。常識や非常識といった区分は、変化の過程における一時的な観測結果であり、その実態は流動的である。
むしろ、多様性の拡大により種の存続可能性を高めている点において「非常識」と言われる人には価値がある。全員が一斉に同じ行動様式に従えば(アイルランドのジャガイモのように)何らかの要因で全てが淘汰されるかもしれない。ヒトの滅亡リスクをヘッジしているのは、むしろ非常識人なのだ。
常識人も、非常識人も、ヒトの繁栄には欠かせない。すなわち、どれだけ非常識な行動・思想であれ、ヒトの繁栄に寄与しているのだから生物的には否定の余地がない。自分も他人も否定せず、各人が好き勝手に生きれば良いのではないか。
まとめ
健常と非健常、正常と異常、常識と非常識といった二項対立は、断続的な現象を観測した瞬間的な結果に過ぎない。そして、非常識や非健常とされる存在こそが、社会や人類の進化を促す役割を果たすことがある。
だからこそ、自分の独自の感受性に基づく考えや行動を肯定し、非常識人としての生き方を選ぶことには大きな意義があると信じている。
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