死への肉薄
寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』という本のなかに『オート・レーサー』という文章がある。
「オートバイには死の匂いがただよっている」
この文章の冒頭のこの一文が大好きだ。
中学生の頃にこの本を初めて読んだとき、開いたページのなかでこの一文が輝いて見えた。
父親のことをどうしても好きになれなかった。思春期どうのというより、人間として相性が悪いのかもしれない。
父親が運転するオートバイの後ろに乗せてもらうことも小さな頃は恥ずかしくて、嫌だと思っていた。
みんなは車でお母さんに送迎してもらうのに、私はお父さんにバイクで……それがとても恥ずかしかった。
父親を好きになれないまま大人になったが、オートバイの後ろに乗せてもらうことは好きになった。
父親は運転に集中していて、その時だけは余計なことを言わなくなるのも一つの理由かもしれない。
特に高速道路を100キロ近い速度で走行している時が好きだった。
身体全体に風が当たる感覚、文字通り私の皮膚のすぐそばで空気が高速で動いているという実感がとても好きなのだ。
往々にしてその風が直接皮膚に当たると痛いけれど。
考えてみれば、私は速い乗り物が好きだ。新幹線や爆走する母親の車……
オートバイのように直接皮膚に空気が当たるわけではないが、その時の少しの緊張と恐怖が好きだった。
あの速度を私が思う通りにコントロールできたらさぞ気持ち良いだろうな、と思うようになった。
オートバイを自分で運転したい。
自分で速度を決めてあの空気の動きを感じたい。
オートバイは厚手の服と手袋を着用して運転するのがマナーだ。長ズボンを穿いていても、転倒すれば肉がはがれ、骨が露出するほどの怪我をすることもある。
しかし、厚着をしていても、ふとした時に服やヘルメットの隙間にするどい風が入り込んでくるのである。
大学生になってすぐ、オートバイを買うお金もないのにオートバイに乗りたいから、という一心で自動二輪の免許を取った。
40キロ以下で運転していても、空気を感じられることが嬉しかった。
寺山修司は、手段としての車に興味はないが、純粋に速さを求めるレースカーには魅力を感じると書いている。
ほんの一瞬で状況が一変する高速の世界には、「緩慢な生と対応するすばやい死の翳」が通り過ぎていく、とも。
私も、オートバイに乗っている時、同じようなことを感じているのかもしれない。
ここで一歩間違えれば死んでしまうかもしれない。
高速の状態にある時、そういう緊張感や恐怖心を嬉々として感じている。私は今、死に肉薄していると。
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