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三島由紀夫「金閣寺」を読んで気候変動問題を考えた

Amazonプライムの「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」を視聴した勢いで傑作と呼ばれる「金閣寺」を読んでみた。

大変面白い小説だったので何回か時間をおいて読んでみたいと思ったがまず一回目に読んだ感想としていくつか象徴的と思われることがらを記録したい。もちろんネタバレだし、正確かどうかもわからないが何度か読み直すうちに修正していきたい。

主人公の吃音

吃音によって主人公は自分と世界が直接に繋がっていない。つまり、世界によって自分が理解されない。主人公自身はそのことについてコンプレックスを抱いているというよりは「理解されないことが存在理由である」と述べていることもあって徹底的に自分と他者が異なっていることを自覚しているし、なんなら理解されていないことを誇りにすら思っているような節がある。

友達の鶴川

吃音によって他者と繋がれない主人公にとって他者との媒介を果たしているのが鶴川である。主人公曰く鶴川は明るい性格で「透明である」という表現をしているので、おそらく主人公にとっては自分と全く対極の人間、つまり自分(鶴川)と鶴川にとっての世界が真っ直ぐに繋がっていると理解していた。しかし、鶴川の自殺が発覚したことで鶴川でさえ自分と世界が繋がっていなかったことに驚くシーンもある。

友達の柏木

内翻足という歩行が困難になってしまう障害を持っている柏木は思想的に主人公と対立する場面がある。大まかに2つの点で二人の思想は異なっていると考えられる。

1つは世界との繋がりである。前述したように主人公は吃音という障害を理由に世界と繋がることができないし繋がりたいとも思っていない。しかし、柏木は障害を「愛される」ことで世界(≒女性)と繋がることができている。柏木にとって障害とは自分の重要なアイデンティティであることがわかるのは女性について語っているシーンや主人公に対して「吃れ!」と罵倒するシーンなどから伺うことができる。主人公が吃音を隠そうとしていることに対して、柏木は隠さないことによって世界と繋がることができると信じているように思える。

もう1つの違いは美への考え方の違いである。主人公は美とは行動であると考え、柏木は美とは認識であると考えている。主人公にとって美の象徴である金閣寺は女性との性行為の場面で現れてくる。主人公が何かと渾然一体となったり同一化する時、性行為の場面では女性と同一化する時に美が立ち現れてくることを意味しており、その意味で美とは象徴的なものと一体になる行動として理解されている。

一方の柏木にとって美とは認識である。柏木がこれについて語っているシーンもあるがそこは正直よくわからなかった。しかし、主人公が柏木の美とは認識という発言を回顧しているシーンを読むと、認識とはおそらく象徴的なものを第三者の視点から観察することを意味している。それがわかると、柏木が女性との関係において女性が柏木の障害である内翻足を触れるのを見ている時に美を感じているのではないだろうか。主人公にとって美とは自分と切り離されたところにある象徴と同一化する行為であるのに、柏木は自分自身が象徴的(メタ)な視点から物事を観察することに美を感じていることに嫌悪感を感じていると思われる。

主人公の父と母

父はすぐに亡くなり、母とは別居しているのであまり言及は多くない。しかし、父親と母親と主人公の屈折した関係性がそのまま主人公の世界との屈折した関係性になっているのではないかと思われる。ドストエフスキーが「父殺しの文学」として名高いように、子供が発達するために幼少期の父親を乗り越えたいという原初体験がその後の成長につながるというフロイトの影響が小説にみられる時がある。僕も最初に父と母が出てきたときにはそれを期待して読んだ。セオリー通りであれば男の子は父親に反抗し、逆に母親に愛着を覚える。しかし、主人公は母親に冷たく父親に愛着を覚えている。そもそも金閣寺が美の象徴であることを教えたのも父である。

幼少期の体験の中に乗り越えるべき対象が周囲にいなかったことで主人公は何かを乗り越えるために世界に飛び出すきっかけを失っている。吃音だけが世界とのつながりを持てなくなった原因ではなく家族関係も影響しているというのが僕の考えだ。

老師

本来であれば乗り越えるべき対象の役割を果たす父に代わってその役割を果たしたのが老師である。主人公は途中まで老師の跡を継ぐ存在だと自他ともに認めているが、最終的には老師に一泡吹かせてやろいうというモチベーションでしか行動できなくなっている。小説後半で老師の恩に背いて家出をしたり、夜遊びに出かけたりするのは間違いなく「遅すぎた父親(老師)への反抗期」であり、老師を乗り越えるモチベーションがあれば世界に一人で飛び出して、他者と繋がっていけることが証明された瞬間でもある。

金閣寺

すでに言及してしまった金閣寺はもちろん美の対象であり、金閣寺と同一化する行為を究極の美と考えていた主人公にとっては金閣寺の中に入って金閣寺を焼くということが究極の美の実践だったのであろう。しかしなぜ金閣寺を焼くという決断をしたのかを考えてみたい。

まず主人公は吃音や家族関係の影響で世界と直接繋がることができない。しかしここでいう世界に金閣寺は含まれてはいない。主人公は世界や他者とは繋がることはできないが、金閣寺とは直接に繋がっている。逆から考えれば金閣寺と繋がってしまっているからこそ他者と繋がれていない。主人公が金閣寺とそれ以外の世界を比較して語るシーンで「金閣寺=永遠」「その他=一回性」と整理している。つまり金閣寺とは永遠の美であり、永遠から比べれば一回性の経験など儚すぎて取るに足らないものとして主人公は考えている。美を永遠の美として理想化しているからこそ、それ以外のモノはなんであっても満足できない。主人公はこのことを自覚しており、柏木のように一回性の美で満足できるのであればなんと楽なことかと嘆いている。

主人公は父の死の際に全く悲しまなかったということを書いている。ここからもわかることは人間は永遠の存在ではなく、いつかは死んでしまう一回性の存在だからこそ主人公にとってはリアルなものに思えない。いつなくなってしまうかわからないものだからこそ人間と直接繋がることが怖いのではないだろうか。

金閣寺という超越性と繋がっている限りは他者と関係を持つことはできない。しかし、主人公はそんな生活を乗り越えたかった。そのためには超越性を破壊しなくてはいけない。主人公にとって超越的なものは金閣寺であり、金閣寺は永遠だからこそ破壊したらもう二度と存在しない。金閣寺を破壊することで自分が他者や世界と繋がることができるのだ。

三島と天皇

主人公と金閣寺の関係は、そのまま三島と天皇の関係だと思った。

戦時中、日本人は自分と天皇や国家という象徴的なものが渾然一体となっていた。つまり、天皇や日本の運命がそのまま自分の運命として受け入れることができた。しかし戦後いきなり天皇や国家と自分自身の直接的な関係性は失われて自分自身で自分の意味づけをしなくてはいけなかった。他者と繋がろうにも天皇や日本を媒介にして繋がれないときまるで自分が吃音者のように世界に理解されていない感覚を持ったのではないだろうか。

主人公にとって柏木とは、永遠の存在(=天皇)を信じず、自分の障害(敗戦経験)を媒介にして容易に他者に繋がれるような三島にとっては疑問視せざるを得ないような他者であったのだろう。その意味では主人公の柏木との対立は、そのまま三島と柏木の対立でもあるように思える。

さて、三島が描いた普遍や象徴と直接繋がってしまった個人が他者との関係をとり結べない問題は現在においてもアクチュアリティがあると頷きながら読むことができる。

自分の人生に何らかの意味づけをしないと生きていけない時に、自分を意味づけてくれるものが象徴的なものであることは珍しくはない。それが天皇でなくとも、例えばアイドルやアニメにはまる人や特定の有名人の「信者」になるような人がそうである。はたまた「自由」とか「平等」のような普遍的な価値観に盲目的に取り憑かれている「信者」のような人たちだってそうだ。彼ら・彼女らにとって普遍性を盲目的に信じてしまうからこそ、その普遍性の重要性を共有できない人とは関係を取り結ぶことができない。同じアイドルを好きではない人への排他性や、平等や自由を棄損する人たちへの罵詈雑言を何度も見たことがある。金閣寺の永遠の美とは異なる一回生の美しか信じられない人に軽蔑した態度をとる主人公と何が違うのだろうか。

三島と吉本

金閣寺を読んでいると吉本隆明の「共同幻想論」を思い出さずにはいられない。個人と普遍性は直接繋がることはなく個人と普遍の間に「対幻想」と呼ばれる「性愛関係」「家族関係」が媒介として機能することを述べている。最近までこのことについてよくわからなかったのであるが、おそらく普遍的な価値観にアクセスするためには一度親しい人の関係性を通らないといけないことを言っている。例えば、平等という象徴性を認識するにしても母親が家族の中で平等に扱われていないことへの違和感とか、友達と平等にお金を割り勘する経験とか、具体的な生活経験を通した理解を経ていないと学校でただ上から教えられただけでは真の理解には到達しないことを示唆している。

「金閣寺」と「共同幻想論」を繋げて考えると、普遍性や象徴性ですら特定の生活形式を共有する親しい人との関係性のなかにおいてだけ成立する「一回性」のものとして理解しているかどうかは普遍性や象徴性への態度の違いとして現れる。

金閣寺の主人公はまず、家族や友人関係がうまくいかず、自分の人生を意味付けるために直接金閣寺という「永遠」の「象徴性」に繋がってしまった。そして「永遠」を重要視するからこそ「一回性」の人間に満足することができず他者との関係を拗らせた。

これを吉本的に修正するのであれば、まず家族や友人といった親しい関係性の中で共有する価値観の中からあくまでも関係性の中でだけ普遍的・象徴的なものを信じることで、それらを絶対視せずにほどほどの距離感を保つことができる。また、別の関係性の中に身を移せば別の重要な価値観があるはずなのでそこではそこの価値観に適応的でさえあれば、もといた関係における普遍性を ーー金閣寺を焼いてしまうようにーー 破壊することなく、関係を新しく構築できる。

個人と普遍が直接つながる時代

先程こう書いた。

普遍や象徴と直接繋がってしまった個人が他者との関係をとり結べない問題は現在においてもアクチュアリティがある

僕にとって気候変動問題や資本主義批判は個人と普遍が直接繋がってしまったような違和感がある。身の回りで具体的に苦しんでいる他者なしに自分のアクションを意味づけてくれるグローバルで象徴的なイシューに飛びつくのであれば、それは金閣寺の主人公のように象徴性を絶対視し、象徴を共有できない他者との繋がりを消失させるだけではないかと思っている。彼らや彼女らがデモやハッシュタグ運動で気候変動と繋がっているのは、金閣寺と同一化して金閣寺の視点を獲得した主人公を想像させる。必要なのは柏木のように、象徴とつながることに意味を感じず、他者との関係の中であくまでも偶発的・一時的に生じる象徴性や普遍性を楽しめる視点なのではないだろうか。

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