自己愛が見えてしまうことはなぜダメなのか 2
相変わらず、巷では歌壇も含めて大多数の短歌が「自己愛の権化」が創り出したつまらないゴミと化しています。ミルクさんが幾度も言葉にされるように、「自分にしか解らないことを安易に共通認識としてしまう病」あるいは
「自分のまわりではそれが一般的だから世界中でもこれは一般的だと勘違いする病」とでも言えるでしょうか、重力にまかせてストンと腑に落ちる短歌の少なさに呆れるばかりです。
「乾いた果てに現れるよう」ミルクさんがこう詠われているように、私という「自意識の悪魔」の痕跡を究極まで薄めたら、はじめて心の在り様が言葉になって浮かび上がってくるのだと思いますが、有名歌人の秀歌などにも自己愛が炸裂した歌が多くて困ります。
私が「このくらいなら許してあげても・・・」と思うような歌でも、ミルクさんは容赦なくダメを突きつけられています。
たとえば、教科書にも載っている重鎮のとても有名な歌、
さくら花いく春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり
馬場あき子(春の水深)
などもそうです。ミルクさんは、「これが老人ホームのおばあちゃんが趣味で詠んだ歌なら許容できますが、短歌界の大御所が詠んだ歌なら全く評価できません」とおっしゃいます。
理由は大きく二つあるそうで、
一つは(老い)と(水流)の表現に感じる違和感で、もう一つは(身に~ひびくなり)という表現だというのです。
歌の大意はもちろん理解できます。
何年も何年もかけて水を吸い上げながら生きて花を咲かせる木も、私と同じように次第に老いてゆくのですね。私はあらためて感じるのです、時に荒々しく、時にか細く響き続けるものが私の中にも流れているけれど、いつまでそれを感じることができるのでしょうか。
そしていつまで桜の花を愛でることができるのでしょうか。
自分よりは幾らか若い樹なのでしょう、親心めいたものも感じつつ、それなりの覚悟というか決意というか、悲哀を含んだようにもとれます。
が、ミルクさんは違います。
さすが「歌人は自己愛の権化」と宣うだけのことはあって、馬場あき子さんの歌は常に対象と自分が同じ位置か見下した位置からのものが圧倒的に多いとおっしゃいます。
「少しは遠慮しろ!」と激昂されるのです。
古今集や古今和歌集の世間知らずな歌人達とまったく同じ病で、何でも自分と対等か自分がそれ以上だという立ち位置で詠みたがるのだといいます。
そしてそれこそが、「自己愛の権化」であり、「自意識の悪魔」に取り憑かれた状態だと、トドメを刺されます。
歌集を手にされても、とにかく傲慢さが「鼻に付く」と感じてすぐに燃やしてしまったそうです。(笑)
「とにかく一歩引いて心と言葉に問いかける」という作業ができない。
素人ならばまだ解ります。でもプロの歌人には決して許されないことだと言われます。
ましてや教科書にまで載っている歌ならば尚更で、
「私の身には響いているのよ」はダメで、
「果たして私には響きが感じられるのだろうか?」
くらいのほうが良いということでした。
樹木は確かに内側に水が流れていますが、実際には流れをイメージさせるほどのものではありません。感じられるのか感じられないのかは、本当に微細な感覚であり、「老い」という人間本位の言葉の使用で数十年という長い時間を想定したにもかかわらず、水流という瞬間を想像させる言葉との反故が生まれてしまって、少し居心地が悪い歌になってしまったという解説でした。
「私の人生はあっという間に過ぎて、瞬く間に年を取ってしまった」ではダメで、「一年を逞しく生きて今年も綺麗に花を咲かせている桜、それに比べて私はどうだろうか、一生懸命生きているのだろうか」ならば良かったのだそうです。
まぁ、無理やりこじつければそんな解釈も出来なくはないのですが、ミルクさんは、その事とは別に「老い」の使い方や「老い」に対する意識のことを評されています。
以下、ミルクさんの注目すべきご指摘をそのまま掲載します。
歌人はよく勘違いをしているのですが、「老い」とは人が創り出した勝手な形容です。
ソメイヨシノはたまたますべての樹が一つの木からのクローンなので、個体性質から約60年程度の寿命と言われていますが、他の桜の木では1000年を越える樹齢を持つものも珍しくありません。そもそも人ごときが「老い」を比べ合う対象ですらないかもしれないのです。花巡りがお好きな作者が、こういったことを知らないとは到底思えませんし、知っていようがいまいが、あまりにも自然に対する畏敬の念が感じられないと思います。
常に○○対自分の構図で上から目線で詠むのは古代の歌人の忌むべき悪癖だと思っていますが、見事にその詠み方を引き継いでおられます。太陽も月も海原も大空も砂漠も山脈も大河も桜の木もチューリップも蜻蛉も蜘蛛や蟻でさえも、自然はすべて人以上に尊いものです。
「謙虚に歌を詠む」ことができないのは、古今集や古今和歌集に特徴的に現れるポンコツ歌人達のいわば伝統ですが、古代ならまだしも現代にはより深い知識を得た読み人がいるのですから、自分勝手な物差しの使用は控えるべきです。あらゆる知識をベースに考える一般人でも悩む事なくついてこられる尺度でなければ、独りよがりと言われても仕方ありません。下句の解釈に悩む人がいるということは、歌意がはっきりしていないことの現れだと思います。自刃された歌人へのレクイエムの意味合いがあることも想像されますが、それは不必要なバイアス情報で、意識がより自分へと向くことを助長しているに過ぎません。自己愛の権化や自意識の悪魔は、いい意味での人間臭さではありません。ただの傲慢だと思います。
~~ここまで~~
ちなみにミルクさんならどうしますか?と下句について尋ねたところ、
「せせらぎひとつ我にあらんや」みたいなものの方がよかったということでした。
A さくら花いく春かけて老いゆかんせせらぎひとつ我にあらんや
B さくら花いく春かけて老いゆかん我にあらんやせせらぎひとつ
倒置させてもさせなくても、それなりに柔らかくなったような気がします。
一方でこれからも力強く生きていくのだという決意のようなものは感じられなくなってしまいましたが、ミルクさんは「そこまで詠う必要はない」ときっぱりとおっしゃいました。
「自分のことなどどうでもよい」
「最初ジメッとした歌が本当に咀嚼された時、あぶりだしの模様のように乾いた果てに現れてこそ本物」
こういった言葉も私をハッとさせました。
自分勝手に作歌しているうちに知らず知らず自意識の悪魔や自己愛の権化にコントロールされていることの怖さに気付くことことが大切で、常に謙虚に対象に向かい合わなければ、良い歌は生まれないということを学んだ経験でした。
5/33 私が見えなくなるまで希釈せよ乾いた果てに現れるよう
ミルクさん 短歌のリズムで https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/