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続・もう歌人なんて名乗らなくていい

 これだけ書いてもまだ「どこがダメなのかわからない」という声は多く耳にします。
現代短歌病は複数の症状の総称ですが、よい機会でもあるので前の記事のつづきということで
(短歌研究社 短歌研究2024 5+6 300歌人の新作作品集「2024年のうた」)より、症例ごとに抜粋してお話してみたいと思います。

症例1(旧仮名バイアス依存症)

川野里子さんの歌集の記事でも述べましたが、語調統一のためにわざわざ読みづらい旧仮名を使うことを止められません。それはどのようなクズ短歌でも「趣があるように見える」からで、無意識バイアスによる加点が最大の目的です。口語や新かな表記にして値打ちが下がるような短歌は、もともとその程度の力しか持っていないということです。

短歌研究の中に川野里子さんと同様の使い方をされている方がいらっしゃいました。

花山多佳子さん(塔)
春疾風より
「つかまうぜ!ドラゴンボール」耳もとに響きて少し涙ぐみたり

どこの歌詞に「つかまうぜ」なんて書いていたのでしょうか?
歌詞も短歌と同じ著作物だと思いますが、勝手に改編することに躊躇も何もないようです。
そもそも無くなった方へのレクイエムならば、最低限のマナーとして自分の方が相手に「寄せる」べきだと思いますが、川野さん同様「私の方が偉いのよ!!」感がそのまま歌に出てしまったようです。”少し涙ぐみたり”で悲劇のヒロイン感もバッチリ。自分が好きで好きで仕方ないのでしょう。この方も重症のようです。

症例2(計算大好きお坊ちゃま、お嬢ちゃま)

学生短歌会出身の方々は大抵この病に罹患しています。
決定的な人間らしさの欠如、人肌や呼気の温み、様々な感情が不意に重さを持った時に生じる質量感が感じられずに、言葉の難解さや順序や圧力を計算して使ってしまう、心の機微よりも作歌ロジック重視型という感じでしょうか。
厳しい言い方を敢えてするならば、「本気で人と向き合って魂の会話をしたことがあるのか?」と問いたいくらい自分には敏感で他人には鈍感なことが歌にも顕れています。

藪内亮輔さん
手花火がつかのま彫ったあなたの手 より

全部載せるとおもしろくないので、選定された言葉をいくつか挙げたいと思います。
「雨の宝石」「心の断末魔」「骨のような花束」「金を零す百年」「貝の小さき音割る」
この中でも最後の「貝の小さき音割る」が解りやすいでしょう。

修辞(レトリック)かなぐり棄てて来た海に足裏(かかと)が貝の小さき音割る

そもそも「かなぐり棄てるようなものかよ、レトリックごとき」と突っ込みたい所ですが、かなぐり棄てる自分が大好きなお坊ちゃまなので一端スルーしておきます。

「かかとで貝を踏んづけたらコツッという音がして割れた」という事象を詠んだものだと解釈しますが、なかなか素直に詠めないものですね。
語順を代えることで謎めいたもの(何か深い意図が裏にあるのではないか?)を演出したい"計算"が出しゃばって、どう読んでもおかしな日本語にしか思えません。
「かかとが触れた貝の頑な」とか「さらわれ割れて貝殻となれ(歌意、空となれ)」なんて終わり方でも良いと思うのですが・・・頭がいい人の考えることはよく解りません。(笑)

お嬢ちゃまからは大森静佳さん。

大森静佳さん (塔)
梅と風刺画より

ここでも特徴的な比喩をいくつか挙げてみます。
「中指がすぐ梅の木になる」「この世に咆哮は留守」「お粥のような白い声」「みみず腫れのみみず」「桜吹雪は解凍されて」「大根の皮膚」「残酷なあだ名」「ブリキの心」

喉にいつもお粥のような白い声 立ちどまったら泣いてしまうよ

歌評ではべた褒めされているこの歌も、何だか計算が見え透いて本来の若い女性ならではの悩みやもがきのようなものにすり寄っている印象を強く感じます。
喉←→声 お粥←→白い 演出したい方向はおぼろげに解りますが、この方の歌はほとんどすべてが「濃霧注意報発令中」という感じで、明確な歌意になかなか辿りつけません。
「私の比喩はオリジナルでスペシャルなもの」という「異世界に転生した無敵の魔導師」シンドロームの一端でもありますが、なかなか他の人間がその物差しの目盛りにチューニングを合わせるのは難しい気がします。
英語の歌詞の意味も解らずに「カッケー!」と叫ぶ中学生のようにファンを公言する人が後を絶ちませんが、藪内さん同様圧倒的に「実感」や「体温」が不足したままの歌では、賞味期限が長いものとはならないでしょう。

お勉強ができる方の作歌に共通して見られるのが、読者に「ナゾトレ」を仕掛けているようなおかしな言葉の順序や組み合わせを多用していることです。TV番組のナゾトレが面白いのは「明確な回答」が待ち受けているから正解するとスッキリするわけで、そもそも明確な回答(歌意)が定まってもいないものの答え合わせを強要されることは、だれにとってもモヤモヤが増すばかりのストレスとなってしまいます。

「貝の小さき音割る」「お粥のような白い声」
一体どのような音、どのような声なのでしょうか?
その描写やその比喩は正しい選択なのでしょうか?

これらは特別な感性でも、希有な才能でもなんでもありません。
感情などは含まれないロジック、”計算”でしかないと思います。
もしもこれらが「実体験」を元にした表現ならば、余りにもお粗末で稚拙です。
絶対的な経験値が足りないのであれば素直に詠むことをすればいいのですが、プライドが許さないのでしょうか、こねくり回してしまうことを止められないでいるようです。

どうも短歌をどう捉えるかという、根本的な取り組みの姿勢に大きな誤りがあるような気がしてなりません。何ともいえない風情をどう伝えるか?という問いに対して、「水墨画のようなもので表現しておけばいいんじゃね」的な安直な思想に侵されてはいないでしょうか?誰しもが持つ古へのバイアスを逆手にとって表面だけ汚し塗装をすれば、それなりの雰囲気が出るとでも思っているかのように安易な作歌が目立ちます。

けれども歌壇は持ち上げるばかりで一向に自浄の雨を降らせることはありません。

あげくの果てに、「現代・・・歌仙」などという称号までつけて本を売ろうとする始末。
そんな評価に値する歌人が一体何処にいるのでしょうか?
おこがましいにも程があると思います。
一体何処までハードルを下げて、何処まで持ち上げれば気が済むのでしょうか。「落差」が大好物なのは解りますけど・・・・。

・下限まで下げたハードル蹴飛ばして躓くことのない障害走

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/