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「自分のこと」という悪魔の意識

※これも非常に深く重いテーマに対する大切なミルクさんからの問いかけです。こちらも特別に許可を頂いて全文そのままを載せることをお許し頂きました。

「自分のこと」という悪魔の意識 (短歌のリズムで 2020年4月28日より)

・ 嬰児の笑みが癒やしとなるならば君は怒りを何に置換す 歌題(置)

昨日投稿したばかりの短歌ですが、その解釈や読解についてご質問をいただきました。
反語的に「置換することはできないだろう」と捉えることもできますが、それはありでしょうか?という内容でした。
仮定形の上句からの流れですから、たらればの答えとしての(できる・できない)も含めた解釈が想定されるのでしょう。できる、できないからできるものなのか、できないものなのか、と思考が移ってゆくこともあるのかなと考えたりしています。

「君は」という問いかけを一旦「自分は」と捉えてしまった読者は、続いて

「自分は何に置換するのだろう」
「自分は何かに置換できるのだろうか」
「自分は置換の対象を思いつかない」
「自分は置換できない」
「そもそも置換できるのか」
「元から置換できないものではないのか」
「きっと元から置換などできないものだ」
「ならば自分が置換できないことも納得できる」

という思考を辿ると思います。

自意識の産み出す、まさに悪魔のルーティーンです。
きっと永遠に、この歌の歌意、作者の真意に辿り付けないでしょう。
それほど、「自分のこと」を優先する自意識とは、自分に貼り付いている悪魔のような存在です。簡単には抜け出せないし、振り切ることもできないでしょう。

少しだけ噛み砕いて歌意をここに記しますが、完全に悪魔を振り払わなければきっと理解に苦しむ内容になるでしょう。解らなければスルーした方がご自身のためだと思います。

人間に限らず、動物などの赤ちゃんを見ても、その動作や屈託のない笑顔に癒やされるという人は少なくないと思います。とうの動物や赤ん坊は、別に誰かを癒やしたいと考えて笑っているわけではないのですが、受け取る側が勝手にそう感じていることに、疑問を抱く人などはいません。
起こった現象や目的に限らず、人は自分が受け取ったときの感覚で、癒やしや喜び、悲しみや怒りを覚えます。目の前の現象を自分の感情に変換して受け取っているのだと考えられます。つまり勝手に自分へ向けられての出来事と想像し、それを変換して受け取っているのです。
もちろん、中には直接自分を指して行われたり向けられている言動もあるでしょう。
いずれにしても受け取る方はすべてが自分に向けて行われているものだと認識して、そのことについてどんな感情になるのか、自分の裁量で変換していると思われます。

そうであるならば、

「誰に向いているのか解らない笑顔」→「癒やし」という、ウルトラCのような内部変換を、怒りや不満、嫉妬や猜疑心のようなものに対してもできるものだと思います。元々すべてが自分に向けての発信と思い込み、それを受けて自分の裁量で、自分自身が内部変換していることなのですから、自分の考え方ひとつで簡単に出来そうな気がします。

ところが実際には、特にネガティブな感情になるほど変換もされずにそのまま吐き出されてしまうようなことが多く見られます。
「弱さ」というような言葉に逃げるような表現も耳にしますが、私は結局自分自身が可愛いだけのワガママだと思っています。
都合のよい時だけ「癒やし」と言っておきながら、自分にネガティブな事柄や感情が降りかかってくると「怒り」や「嫉妬」にすぐに変換してしまう。すべてを自分でコントロールしているにも関わらず、剥き出しの感情や欲望だけを吐き出して、それも人間の弱さだと擁護するような、そんな自意識の悪魔に取り憑かれている人の多さが、児童虐待やDVなどの社会問題を引き起こしています。

都合のよいことだけではなく、本当はネガティブなこともきちんと受け止めて、変換しなければならないはずです。そして人にはその能力が備わっている。だから怒りの感情に苛まれた時であっても、君はそれを受け止めて、何かに変換して乗り越えて欲しい。

歌の真意はこの一点にのみあります。

相手の事などお構いなしに、苦労や災難はやってきます。浮かれるのも沈み込むのも、考え方次第で人は自分でコントロールできる。お金も時間もかからない。ただ心の中のスイッチをパチンとするだけで、変換できる生き物だと思っています。

この歌もエールと捉えられることを願って作りました。

もうこれ以上は何も申し上げる必要はないと思います。

2020年4月28日
短歌 ミルク

以上がミルクさんのその時のブログ全文なのですが、私はこの歌が投稿される前後の状況をたまたま「うたよみん」内で見つけることができました。
ご病気のお子様を看病していらっしゃるお母様に向けてのエールの歌だとわかったのですが、その方に真意が伝わったのかどうかは定かではありません。それでも看病や介護やそうせざるを得なくなってしまった自分の運を呪いたくなる荒れた気持ちを、なんとか穏やかにできないものかという真摯な気持ちで作られた歌だということはわかります。どこまでも人の可能性を信じて、そのことを慈しんで歌に込められたのだということが理解出来たとき、やはり放たれた歌の問う意味は大きいものだということを実感したのです。
自分に囚われることがあらゆる可能性を押しとどめてしまう事や、作品の読み手にさえも「自分ごと」や「自意識」からの脱却が求められているのだと感じられた出来事でした。

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/