見出し画像

このナツの考え事、というよりも上半期に私が感じたあれやこれや

こんにちは。
お久しぶりですね、ぺらです。
長袖を着ても少し寒かったころから一転、
「災害級の暑さ」とも表現される暑い季節に
知らない間に移り変わっていましたね、最近。

頭、痛くないですか?
水分補給はしてますか?
ご飯はバランスよく食べられていますか?
お元気でね、どうか。

何を今日は書くか。
最近の考え事を言葉にします。
この上半期は何というか、
様々なことが「露呈」した期間だったなと
個人的には感じています。

言葉にどこまでなるか分からないけれど、
ぐっと腹の底に閉じ込めて、
考えたふりして、自分の言語になっていないのは
それは考えた内にならないような気がして
悔しいので、文字という空虚な道具を使って、
中を満たしていきます。​

「平等である」という洗脳

休学を終え、私は久しぶりに学校に向かった。
しかし、目的は講義を受けるためではなく、
自宅学習のためのプリントを取りに行くためだった。
2週間の自宅自粛期間、
パソコンをカタカタと課題をしながら、
本をたくさん読んでいた。

2週間後、再び、学校に向かった。
そして、2限まで受けて、教授が放った。
「明日から、オンライン講義だから」
それはまるで、玉音放送のようだった。

オンライン講義のためのパソコン設定を行う。
無言で誰もが隣にいる人の顔を、
画面の向こうで見ていた。

東京に行ったとき、電車の中ではみな、
寝ているか、スマホを見ているかのどちらかだった。
そして、わたしはその光景を見ながら気が付く。
夜景の美しさは、誰かの苦労の結晶なのだと。

私は夜にだけ地上に存在する天の川が好きだった。
一人ではないと、人間に従順な「光」が教えてくれるから。

しかし、私たちは従順なものばかりに囲まれた生活に
慣れ切っていたのかもしれない。

自然、ウイルス、天候、
人間の手でどうにか出来るものはすべて
どうにか従順なものにしようと企んだ人間の欲に
歯止めをかけた大魔王がニュースを、生活を席巻した。

「どうにもならないものがある」

私たちが率先して目をつむり、
いや、まるで小説の世界のように
どこかの誰かが生み出した
フィクションかのように
埋め立てごみのごとく、
捨てたと見せかけて、                                            ただ埋めていただけの廃棄物が
一気に空気中に舞い上がったような気がした。

本当はオンラインで授業とか、朝礼だけでもしたいんだけど、管理職の腰が重くて。若手はいくらでも出来るし、意欲がある先生はいるんだけど。
「公平」とか「平等」って言われると何も出来ないよね。
やってみないことには分かんないのにね。

この言葉が今の問いを生み出した
きっかけの一つだった。
緊急事態宣言が解除され、
高校時代の恩師と3年ぶりに会った。
その時に、恩師が何気なく放った言葉だった。
私はご馳走してもらったケーキを
食べている最中にも、
そして、電車でアパートに帰る道中にも、
ずっと何かが引っ掛かっていた。

そして、この間、何かの講義中に
考え事をしていたら
その引っ掛かりを解く言葉が降ってきた。

そもそも、この世界は平等なんかが
ベースじゃなくて、不平等がベースじゃん。

「不平等」という概念が存在するためには
「平等」という概念が存在する必要がある。

私はこの言葉が自身から生まれてくるまで、
どこかで勘違いしていたのかもしれない。
いや、勘違いというよりも
因果関係を見誤っていたという表現のほうが
的を得ている気がする。

平等であるべき社会不平等があるのではない。

不平等が前提の社会の中で存在している平等
ただの思い込み勘違いなのではないか。

後者の感覚はジェンダー論の本を貪るように読むと多少、理解が進むかもしれない。

高校時代、終業式に教職員が生徒と同じように
体育館の壁側に並んでいた。
いつだって、上座に居座るのは
男性の先生だらけだった。

中学の時に、学校は社会の縮図だという
先生の言葉に対して、職員室だけやん、と
心の中で言っていたが、

「在る」と願いたい社会の縮図ではなく、
現実的(本当にリアル)な社会の縮図が
職員室にはあった。

誰もその異様さに気がついていなかったことを
私は後から知るのだけれど、
「気がつかない」ことへの「異様さ」よりも
目の前の事実を疑いもなく、
あるべき(あることが当たり前な)真実
だと
認識していることに気がつかない
その素直さ(従順さ)
が異様だった。

本当に平等が存在する社会なのならば、
そんな職員室にはならないはずである。

しかし、これがもし、不平等がベースだとしたら、
この縮図は真実(う~ん、正しさ?)として存在出来る。

あなたがもし、平等だと感じていることがあれば
それは本当に平等ですか?
平等だと、思いたいだけではないですか?

空虚な当事者意識

最初の話に戻るが、
オンライン講義になり、学校に通うことがなくなった。
ただ、私はWi-Fiの電波状況がすこぶる悪く、
在宅での受講が難しかったため、
特別な許可を出してもらい、
普段通りの講義室で講義を受けていた。

誰もいない教室を自分の部屋のごとく使い、
いつまで経ってもオンライン講義に慣れない
教授クラスの先生たちの講義を助け、
それなりに学校の設備も使っていた。
(クーラーや電灯、トイレなど)

しかし、私以外は誰もいない。
バイトも出来ない状態で、
家の電気代、データ通信代は普段以上にかかる。

それでも学費の減額はなかった。
さすがに引き落とし日時が
5月から8月になったが、
満額の請求だった。

私の預金通帳は底をつきかけていた。
休学してた間、貯めていたバイト代がなかったら
正直、かなり危なかった。
仕送りも給付金が親のもとに振り込まれるまでなかった。

大学は学生向けの特別給付金の募集を始めた。
私は迷わず応募をした。
たかが3万、されど3万だった。
しかし、少し経ってから不採用のメールが届いた。

何名かの学生から「採用基準が不透明である」
そんな指摘が学務にあり、採用基準の詳細が
そのまた何日か後にメールで送られてきた。
その理由の一つ目を見て、私は驚いた。

奨学金を受給している学生は対象外

奨学金、私含めた高校の同級生のほとんどが借りて大学に入ってんだけど。

ここまで書いて、私は奨学金について
話したいわけでも、学生の困窮を書きたいわけでもない。

そんなどこかでは困難さを感じながらも
満額払えてしまう、満額を請求される身分にある、
そんな事実との狭間に存在してしまっている
自分の立場が何故か息苦しいのだ

中途半端な劣等感、
勝手に自分で生み出して自らの首を絞める劣等感
そしてそれが暴走した先に待ち構える
ネオリベ主義が敷いた、自己責任論

「ご飯が食べられない」
「バイトが出来なくて、学費が払えない」
「休学や退学を検討している」

私だって、貯金額を見て、
食べたかった豚肉が高く感じて、
そっと返したことはあった。
普通の本屋さんでの新書は高くて買えないので、
図書館で本を貸出可能冊数満冊を借り、
何百円で買える本を求めて、
20分近く、自転車を走らせたこともあった。

でも、所詮、その程度である。
退学を検討しなければならない人は
豚肉も本も買えない。
そもそも買う、買わないという
選択肢すら選択肢として認識していない

そんな学生さんの声を取り上げた記事に
いいね!やリツイートをするたびに、
私からどんどんその事実が離れていく感覚を
どこかで覚えた。


きっと、私は、他人事だと分かりながら、
自分ごとであると思い込みたくて
手を動かしている。
そのことに薄々、気がついている。
責任を負わない軽率な当事者意識。

何でもかんでも「自分ごと」にするって
本当に良いことなんだろうか。


「分からないこと」「他人事」は
「分かること」「自分事」にしなければいけないのか?

私は豚肉を我慢するときもあるし、
基本的に雑誌は高くて買えないので、
本屋で立ち読みしたり、
図書館で読んだりしている。
新刊は中古になるまで待つし、
ブックオフで何百円になったのを狙って買う。

でも、学費の免除はないし、
バイトを日常的にしなくても生活は困らない。
学費は満額払うし、それで通帳の数字が0にはならない。

自分はもしかしたら、
マジョリティ・オブ・マジョリティなのかもしれない。
ただ、自身で自身の身分を
マジョリティということに
どこか下衆さを感じるのも否めない。

私はうすうす分かりだした。
自分がマジョリティであることが
「苦しみ」を「苦しみ」だと言いづらい理由に
つながるのではないか。

自分よりも困窮している方たちのことを
そうではない自分が声を上げていることに
なぜか罪悪感を感じている。

その罪悪は優越感から来るものではないかという
そんな仮説を立ててしまったとき、
心臓が内出血を起こしたかのように感じた。

痛みの伴わない出血。
青ざめた血の塊を舐めるような、
その舐める行為すらも罪悪感を感じるような
けれど、舐めなければいつしかその塊が
血管を圧迫して、血流が悪くなるから、
舐めて、溶かしているような気がした。

(2~3日、ここまで書いて止まっていた)
さて、ここまで書いて何となく
自分が最も言葉にしたことが出来ていない
掻きたいところが掻けないやるせなさに
うずまっていた。

そんな時に、一冊の本と出会った。
電話をすれば5時間は余裕で話せてしまう友人に
薦められていたものだった。

久しぶりに興奮した。
夢中で読み進め、いくつもこれや!という
言葉や思想に出会った。
その中に私のやるせなさを打開する
ヒントになりそうな文章に出会った。

差別に反対するからといってマイノリティを上に置いてマジョリティより尊重すべきものとして扱わない代わりに、劣るものとしても見なさない。そもそも、マイノリティをマイノリティであるというだけでリスペクトするというのが「同情」という見下した態度なのであり、そんな人をばかにしたようなことは私はしない。『女たちのテロル』ブレイディみかこ P160抜粋

私はこの文章をベッドに座って読んでいたが、
思わず立ち上がって、ガッツポーズをした。
「これだ、ヒントはこれだ」と。

マジョリティがマイノリティを上に置くことは
マイノリティにマイノリティらしさを植え付けていることに
他ならないような気がする。

ひとり親家庭、障がいを持っていること、
経済的に困窮していること
ある程度、イメージが湧くのではないだろうか。


ところで、そのイメージは真実だろうか。

そのカテゴリーの中にある
個々の在り方を見る前に、
カテゴリーのイメージだけで
見ていないだろうか。

ひとり親家庭はかわいそうで、
障がいがある人はかわいそうで、
経済的に困窮している人けはみじめで。

そんなイメージから
ひとり親家庭の人には
両親のことを話してはいけなくて、
障がいがある人は助けなければいけなくて、
経済的に困窮しているを馬鹿にしてはいけない。


本当だろうか。
誰かが、「皆そうである」とでも
言ったのだろうか。

というよりも、別にこれは
誰に対してもそうだろう、と私は思う。

別に両親そろっているからといって
両親のことを好意的に
思っているとは限らないし、
障がいがないからといって、
助けが必要でないわけではない。
経済的に裕福だからと言って、
馬鹿にしていいわけではない。

今、マイノリティが声を上げ、
自身が生きやすい世界を広げている。

上記の雨宮さんの著書にいくつか
マイノリティである人が声を上げ、
制度を変えた例が載っている。
もちろん、並大抵のことではなかっただろうし、
まだまだマイノリティであるという理由で
困難さを抱えている人たちは
たくさんいるだろう。

しかし、困難さを抱える理由は一つではない。
どんな立場でも、どんな環境でも
「苦しさ」という感情を抱えて
生きている人たちはたくさんいる。

それを今回のコロナ騒動で私は感じた。

苦しさに優劣はない。
嬉しさや楽しさ、幸せを比較できないように、
悲しみや苦しみに順位はない。

けれど、マジョリティであるという理由で
苦しみに順位がつけられる。
「あなたたちは恵まれているんだから」
この言葉は人から言葉を奪う。

恵まれているからといって、
いつだって明るいわけではない。
(そもそも、恵まれているというその基準も一定のものがない時点で、結局主観に委ねられている)

苦しいときは苦しいし、
悲しいときは悲しいし、
怒りを感じるときは怒りを感じる。

ただ、その理由、発言していた人間が
その人だった、以上!

それではダメだろうか。

感情と行動、それからまとめ

画像1

以前、私がTwitterで書いたもの。
このときは、相対的剥奪と書いているけれど、
ちょっと違う気がする。ルサンチマンに近い。

ルサンチマン的という語は、ニーチェ的文脈では、本来のルールでは勝てない者が秘かにルールを変更して内面で勝つといった意味があるが、何かに対する反感に基づいて自分の態度を決定するという意味のほうが基礎的だ。興味深いことに、力の入った態度決定の殆どは後者の意味ではルサンチマン的である。          永井均 2020/5/15 Twitterのツイートより

↑ 「反感」ではなく、「苦しみ」という言葉が
私の思うルサンチマンという言葉に意味合いに合致すると考える。

これは「怒り」
これは「悲しみ」
これは「嬉しさ」
これは「嫉妬」
これは「苦しみ」

感情に名をつけるのは誰なのだろうか。

感覚は主観でしか測ることが出来ない。
しかし、この感覚を
他者によるものさしで測らされ、
自身の苦痛を発することが出来ない
風潮になっていると感じる。

自分が苦しいなら、それは苦しみ。
自分が楽しいなら、それは楽しさ。

苦しかったら
苦しそうにしなければならないわけでも、
楽しいなら、
楽しそうにしなければいけないわけでもない。

悲しいから泣くのではなくて、
泣いているという行為が悲しさに結び付くから
(泣くこと=悲しさという方程式)
人は泣いている人を見て「大丈夫?」と
言うのではないだろうか。

楽しいから笑っているのではなく、
笑っているという行為が楽しさというイメージに
結びつくから、「ええやん!」というのである。

以下、この行動と心理のパラドクスについて
私が学んだ本の皆さんです。

こう考えると、人の言動の知覚は
教科書や公式があってのものなのだということが分かる。
(人間って想像力があるんだかないんだか…)


だからこそ、言葉の数よりも、
感情の数に出会うことが
私は大切だと思っているということを
言葉に出来て今、私はパソコンの前で
ニヤッとした。

私が本を読むのが好きな理由が
まさにこれだからだ。

私にとっては、感情の数を教えてくれるもの
それが本だった。
自分のなんとも言えない感情に
名前をつけてくれる。
名前とまでは言わなくても、
これは感情なのだと教えてくれる。
(因みに三島由紀夫は私にとっての
感情描写の名手)

冒頭の話からは少しそれてしまったので、
最後にまとめをしよう。

私が書きたかった
(考えて言葉にしたかったこと)、
というよりも、書く中で分かったことは

イメージは「個」の平均値であること

イメージは私たちに分かったと勘違いさせ、
想像することを放棄させているのではないかということ。

「平均値」
日本の学校教育を受けてきた人間が
大好きな言葉。

しかし、この平均値という概念が
人間の思考力、想像力を
奪っていたのかもしれない。
そんなことに気づいた。

イメージは真実ではない。
いや、真実といえば真実なんだろうけど、
使い勝手のいい「真実」とでも言っておこう。

生温さを含有するのが人間だと
私は考えているのだけれど、
その最も人間を人間たらしめる生温い微妙さを
凍らせるか、沸騰させるかのどちらかにして
その微妙さを分かりやすいものにした
「水の在り方」こそが
私が考える平均値、イメージである。

でも、水だって50℃といっても、
50.1℃かもしれないし、49.9℃かもしれない。
その50.1℃、49.9℃こそが「真実」だ。

けれども、それでは計算が面倒くさいし、
50℃として、そのあとの実験を行ったほうが
使い勝手がいい。
要するに、平均値を真実だと信じましょう、
というわけだ。
(数学界ではこれを「仮定する」というのですね、ふーん)

だからこそ、私たちは常に仮定されたものを見ているのかもしれない。
その現象の平均値しか
見ていないのかもしれない。
そう懐疑的な視点で物事を見る必要が
あるのではないだろうか。

「本質を見ようとする目」とはこのことか。
ははーん、今、分かったわよ。
長々と書く必要性がここにあったのね。

では、切りがいいところで、
いや、長くなってしまうのでこのへんで。


どうかお元気で。
ここ最近、救急車のサイレンを聞くことが
多くなっている気がするから、
無理をせず、無事でいてください。
私は言葉に出来たことに満足して、
また本を読んだり、
YouTube見たりしてますから。

夏が終わる、来年の夏は何をしているかしら。
就活してるかな、インターンしているかな、
院(あ、別科か)に行くための勉強と
お金を貯めているかな、
国試に向かって
センター前みたいなことしてるかな、
知らんけど、何とか生きられたら
(活きられたら)
私はそれで充分です。
6割で頑張るが私の当分の目標です。


最後に、最初の表紙的な写真は私が撮ったもの。
テーマは
【ナツだった、あれは、きっと】です。
というと、顔を両手で覆いたくなる
あの感じが顔を赤くしたような気がする。

この夏の私にとっての最初で最後の
旅で撮ったもの。
このときは運悪く、
何もかもがうまくいかなかったので、
せめて自然だけは私の味方をしてくれと思い、
知り合いの方に連れて行ってもらったら、
海は寛大でした。けれど、その寛大さに
憎らしさを感じたのは初めてでした。
美しくあることに嫉妬する。
私はそのあと、人間に従順な光がある街に戻り、
どこかでほっとしていました。
都会の中にちょっとあるくらいが
好きなのかもしれません。
分からんけど。

FIN

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?