2024/10/05 青森にて
こんにちは。
10月5日、青森へ。忘れられない一日になった。
午前中から昼過ぎにかけては青森県五所川原市金木町を訪れ、太宰治記念館「斜陽館」などを見て回った後に青森市内へ移動し、夕方からはこの日がアリーナツアー初日だった椎名林檎【(生)林檎博'24ー景気の回復ー】青森公演へ参加。
一日を通して、すさまじい精神の回復が得られた。
文章と画像のボリューム的に時系列での順序は逆になってしまうけれど、先に椎名林檎ツアーの感想を書いた後に斜陽館のことを書きます。
※ツアーのセットリストや演出等のネタバレはないつもりです。
書きたいように書いていたら、引用を合わせて8000字超え、画像は70枚になってしまった。このページを読み込むのも大変だったかもしれません。
読み手への申し訳なさと同時に、自分のnoteなんだから好きなようにやりな〜という思いもある。
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【(生)林檎博'24ー景気の回復ー】
青森駅から、椎名林檎ファンがみっちみちに乗ったシャトルバスで会場へ。
物販列へ並んでいると、欲しいものがひとつまたひとつと増えていって、結局想定を上回るお買い上げをしてしまった。
しょうがないね、なんせツアーのタイトルに“景気の回復”を掲げているのだから。羽振りよくまいりましょう。
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終わりました。
あまりにも凄くて、私がこの目で目にしたものは本当に現実だったのだろうか、幻想だったのではないか……と、身も心もふわふわしているような気がする。
これはなんだ、ライブパフォーマンスか、オーケストラコンサートか、ミュージカルか、演劇舞台か、キャバレーか、映画なのか、いや、人生か……
椎名林檎さん、少女にも大人の女性にもどんな姿にだってなれるお方だ と改めて思い知る。
時に消え入りそうなほど儚げで、また時には妖艶で強くて、どんな感情も形容もぜんぶ手の内にあるかのような。
お衣装、髪型(髪色)、メイク、表情、仕草、姿勢、歌声、他の出演メンバー、照明、背景演出、すべてを味方につけていた。本当に魅せ方の天才。
林檎さんが作り出す世界に魅了されっぱなしだった。
この人と同じとき(瞬間、時代)を生きられていることを嬉しく思う。
そして席が良すぎました、ありがとうございます。
ステージの全体像を把握できる距離感でありながら、林檎さんのお姿や表情を肉眼で確認できた。
コンタクトの度数を上げておいてよかった。
お着物などの素敵な装いのお客さんがちらほらいらっしゃるのも、林檎さんのライブツアーならではの光景と思う。
私は服装こそちょっと小綺麗どまりな感じだったけれど、林檎さんの影響で購入した資生堂リップのおかげで終始心が踊っていた。↓
みなさまも是非に、赤を忍ばせてみてはいかが。
気づき。“林檎さんのライブツアー公演場所”という前提で青森の中を見て回ると、あまりにも相応しい土地すぎる。至るところに林檎のモチーフがちりばめられており、県をあげて一年中林檎祭りぢゃないの。
今回泊まらせてもらった宿でもチェックインの時に、おやつにどうぞと林檎一玉いただいた。
私のこのツアーへの参加は青森公演のみなのですが、今後の公演の成功を陰ながら応援しています。手旗をはためかせながら。
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太宰治記念館 「斜陽館」
時を巻き戻し朝8時。
どうしても訪れたかった、太宰治の故郷 金木村(現・五所川原市金木町)へ。
最初に少し、太宰の小説『津軽』の話と、私のこれまでの太宰読書歴の話をします。
『津軽』は1944年(昭和19年)、太宰が津軽風土記の執筆を依頼され、3週間ほどかけて故郷である津軽を旅した時のことを書いた作品。
これは小説…なのだろうか…?…旅行記でもあるし、エッセイともとれる。
私はこの『津軽』がとても好きで、この作品を読んだから津軽へ来た。
私がこれまで読んだ太宰作品でいうと、教科書で読んだ『走れメロス』が最初で、そこから10代の時に『人間失格』と『斜陽』を読んだのだが、苦しくて、痛くて、最後まで読み終えることができなかった。
そこから太宰作品と交わることはなかったが、時が経ちおおよそ“大人”と呼ばれる年齢になった頃、建築好きであった私は国指定重要文化財である「斜陽館」の存在を知り、青森県金木にあるそこが太宰治の生家であることを知り、そこから作品『津軽』を読み強く心を打たれ、以来何度も津軽へ思いを馳せ、太宰の他の作品も『人間失格』や『斜陽』を含め読むようになったのだった。
このルートで太宰に辿り着いた人はかなりの少数派なのではないだろうか。
自分、よくやった!と思っている。
このnoteの中で太宰治のことをなんと表記するかはとても悩ましいけれど、なんとお呼びしてもおこがましいが、一丁前に“太宰”とさせていただきます。
10月5日へ話を戻す。
今回は時間の都合上やむなく車で行くことにしたが、本当はJR奥羽本線で青森→川部へ、そこでJR五能線に乗り換えて川部→五所川原へ、今度は津軽鉄道に乗り換えて津軽五所川原→金木着という、実際に太宰の作中にも度々登場するルートで行ってみたかった。彼の足跡を辿りたかったのだが、またの楽しみにしよう。
津軽鉄道、ご存知ですか。冬のストーブ列車が有名でしょうか。ドキュメント72時間にも登場しています。いい回です。
車で行って良かった点は、斜陽館までの道中でも道路標識などを通して、太宰が教えてくれた津軽の地名にたくさん出会うことができ、その都度嬉しくなったこと。車は車で良かったかもしれない。
小一時間ほど車を走らせると斜陽館へ着いた。
※複数のカメラで撮影したため、画質に統一性がありません。
◯竣工 1907年(明治40年)
◯設計 堀江佐吉、斎藤伊三郎
太宰治(本名 津島修治)の父であり、大地主であった津島源右衛門によって建てられた。面積は394坪、庭園なども含めると680坪にもおよぶ大豪邸で、総工費は4万円、現在の価値に換算すると7〜8億円という説もある。
この家に太宰が生まれたのは1909年(明治42年)、ここで13歳まで過ごしたとされている。
戦後、津島家の手を離れた後には旅館「斜陽館」として使用された後、1998年からは現在の太宰治記念館「斜陽館」として公開されている。
外観から既にそのスケール感に圧倒される。
入っていこう。入館料は大人ひとり600円。
現在は受付が置かれている広い土間を抜けると、開放感のある板間が広がる。
凄いとしか言えない。
まるで鏡面のようにピカピカの床。
骨組を鑑賞。
どこを見ても木材がふんだんに使われている。美しいね……青森ヒバ、ケヤキだそう。
蔵。なんと建物内に3つもある。
当時、米蔵には津島家の小作人が収めた米俵が、何百何千といくつも積み上げられていたという。
津島家、本当に金木の大殿様だ……
台所は幼少期の太宰にとって気楽な場所であり、よく遊んだ場所であったと。
壁の収納棚には、大河ドラマの大奥のシーンで出てきそうなほどたくさんのお膳が並んでいた。
今では貴重なものとなってしまった、波打つような歪みのある昔のガラス。職人の手作業の産物で、ひとつとして同じものはないといわれている。
このゆらぎを持つガラス越しに見る向こう側の景色が私はたまらなく好きで、古い建物にお邪魔した時はいつも探してしまう。
人の手によって生み出されるゆらぎに、味わい深さを感じる。
窓の外の景色は時代を経て変化しているかもしれないけれど、このガラスを通して見ると、当時の人と同じものを見ているような、そんな気持ちになりませんか。
タイムカプセルならぬタイムフィルターを通して向こう側を覗いているような。
斜陽館でも至るところで出会うことができる。
昔のガラスについて色々とネットで見ているうちに、2022年の皇室の歌会始で披露された、とっても素敵な歌があることを知った。
引用させていただきます。
ゆがんだガラス越しに立派な庭園を眺めるのもよし。
ここからは展示室となっている文庫蔵へ。ここだけは撮影禁止エリアとなっている。
蔵の中には、直筆原稿や書簡、太宰が着ていたマントや羽織などの資料が収められていた。
ここでは他のお客さんで、展示品にまつわる小ネタをガイドさんかと勘違いするほどに流暢に、連れの方に熱心にお話しされている方がおり、私はそのおこぼれに預かろうとこっそり聞き耳を立てたりした。私は太宰初心者のペーペーなので。
そういった方々を一組どころではなく、複数組お見かけした。
すごいね、太宰よ、皆に愛されているよ。
展示室を後にし、座敷の方へ。
ここは太宰が生まれた部屋。
床に腰を下ろし、目線を下げて部屋を見まわし、幼き日の太宰の姿を想像する。
いくつも座敷が連なりとにかく広い。広すぎる。
お仏壇も、もう眩しい。
建具、欄間の美しさよ……釘隠しの装飾も抜かりない。
ご不浄の床もこれまた凄かった。
ここは雰囲気が変わり、一気に洋の空間へ。
金融執務室として使われ、ここで個人向けの金融業をやっていたと。
建物に入る前に外観を観察している際、斜陽館の真向かいに青森銀行があったことを思い出した。
もしかして、もしかしてなの?という予感は当たり、津島家が経営していた金木銀行が青森銀行に引き継がれたらしい。
金融執務室の道路に面したガラス戸に、心にかなりぐっとくる一部分を見つけて、ありがとう……と思わず手を合わせてしまった。
金融執務室を出ると、1階は終了、いよいよ2階である。
立派な衝立、クラゲのようなかわいい照明、欄間のデザインもシンプルだが素敵。
そして奥に見えているのは、建物に入った段階からかなり気になってチラチラ見ていた階段……いざ……
お分かりいただけるだろうか、私が、この大階段にどれほど強く心を打たれたか。
足を踏み入れた瞬間、目の前に広がる絶景に卒倒するかと思った。
感動した。
複雑な階段の動線、曲線と直線、和と洋がうまく融合し、お互いを高めあっている。
他のお客さんがいないタイミングだったこともあって、しばらくの間動けなかった。ただうっとりと眺めることしかできなかった。
天井から下がるシャンデリア。これがまた、そよ風に吹かれゆらゆらと優雅に揺れるのである。本当に美しい。
踊り場の奥にも、今は立ち入り禁止だけれどひっそりと部屋があるようで、そこへと続く天井は見事な寄木になっていた。
天井の廻り縁の装飾との組み合わせがたまらない。
この大階段から離れがたいが、2階にも部屋はたくさんあるのだぞと自分に言い聞かせ、自分で自分の尻を叩いて前へ進む。
どうしたらいいんだ、既にフラフラになっている。
奥のソファーに太宰が座っていたという。(『津軽』より)
純和風の外観の建物の中に、こんな空間が広がっているなんて思わない。
ここもまたすごく手が込んだ造りの部屋だが、あの欄間はいったい何だ!?
……雪の結晶だそう……すごい……
この部屋は、太宰を含む子供たちの勉強部屋として使われたそう。
右から3番目の襖、漢詩の最後の行に“斜陽”の文字が書かれており、『斜陽』のタイトルもここからつけたのではないかといわれているらしい。
幼少期からこういう環境で育てられたのだね。
太宰はとても勉強のできた優秀な子だった、と読んだ。
この、格子天井を……見てください……凄すぎる……
この、美しい輪郭を…ご覧になって…
まだまだ和室がある。
右手に見えているのが斜陽襖の裏側。かなり歴史を感じる質感で、まじまじと鑑賞してしまった。
奥に見えているガラス戸の向こうは、板間の吹き抜け部分。この階段を降りていくと板間につながっている。板間はリビングのような場所だったはずだから、津島の家の人たちはこっちの階段で移動することが多かったのかな。
和室が並ぶ空間の中に、この洋の階段をもってくるところに遊び心を感じませんか。
見事に和洋折衷のかなり好きな部分。ぐっとくる。たまらない。
途中迷子になりかけたが、おそらく全部の部屋を見てまわることができたと思う。本当に豪邸だ。
私が見学している間、ちょうどお掃除の時間だったようで、何度もスタッフさん(?)にお会いした。私がうろちょろと、あちこち歩き回っていたせいもあるかもしれない。
会うたびに「ゆっくりしていってね」と声をかけてくださったり、素敵な小話なども教えていただいたりして、ちょっぴり恥ずかしくも嬉しかった。
広い屋敷の中を、よいしょ、よいしょと、せっせと拭き掃除をなさるお姿を拝見していると、これまで見学してきた手入れの行き届いたぴかぴかの床や手すり、窓ガラスも頷ける。
今ここに至るまでに、津島の家から別の人の手に渡り、旅館として使用されていた時期にも多くの人が触れてきたであろうに、こうして当時と大きく形を変えることなく保存されているというのは、おそらく訪れる人がみな価値を認め、大切に使ってきたということだろう。今日まで残っていてくれてありがとう。
太宰が生まれた家ということで当時に思いを馳せるのはもちろんだが、太宰ファンをはじめとしてこれまで多くの人に愛されてきた歴史を感じて胸がいっぱいになる。
最後、またあの大階段から1階へ降りよう。
本当に大好きだ。愛おしくてたまらない。
また会いに来るからね。
旧津島家新座敷 太宰治疎開の家
既に胸いっぱいなのだが、もう一カ所行きたいところがある。
斜陽館から歩いて4分ほどの場所に、太宰一家が戦時中疎開していた、生家の離れである新座敷がある。
入館料は500円。
受付兼ガイドさんのお話から、太宰への愛と尊敬の念を強く感じた。とってもお話上手な方だった。
斜陽館だけで帰ってしまう人が多くて、もったいないことです、来てくださってありがとうございますと。
いえいえ、こちらこそお邪魔します。
終戦の直前に関東から金木へ疎開してきた太宰は、ここへ住んだ1年と3か月あまりの間に23もの作品をこの離れで執筆したという。
まず、これまた立派な庭を案内していただいた。
いただいた資料を片手に振り返る。
この写真には写っていないが、木々の奥には赤い斜陽館の屋根が見えた。
斜陽館からは歩いて4分ほどの距離だったはずだ。
元々この離れは斜陽館に隣接する形で建てられたが、太宰一家が東京へ戻った後、斜陽館(母屋)を売却した際に離れを切り離し、この場所まで曳家したということだ。
この今離れがある場所も、昔は津島家の敷地だった。2700坪?もう想像が追いつかない。
奥に見えているのが、当時の太宰の書斎だそう。
「実際に座ってみても大丈夫ですよ」とお声がけいただいたが、なんだかわたしは座布団の上に太宰が居るような気がなんとなくして、ぼんやりと机の周りでこうして眺めることしかできなかった。
机は津軽塗りだった。窓から差し込む光に照らされている。
……感慨深い……そうか、ここに……
太宰へ思いを馳せる、という点で気持ちが昂るのは、斜陽館より断然この離れの方と思う。
クライマックスだった。
太宰の息遣いさえ感じられた。
離れとはいっても、この他に洋室と和室が2つあるらしい。
この洋室と、先ほど書斎の手前にあった和室は『故郷』で登場している。
サンルームに降り注ぐあたたかな光がとても印象的だった。
窓枠が描く影模様と、寄木の美しい床と、この光景が忘れられない。
ここでは『親という二字』という作品を執筆したんですと教えていただき、青森からの移動中にあっという間に読んでしまった。
奥に太宰の書斎が見える。奥さんや子供たちが見ていたのはこんな景色だったのではと想像する。
斜陽館はあまり“生活”という感じがしなかったのだが、離れの方は太宰一家が過ごした日々が残されているように思う。
母屋から切り離しても取り壊すことなく、今日までこうして残っていることがありがたい。ありがとうございます。
斜陽館と離れをまわってきて思ったこと。
斜陽館は終始、津島家の強大な力に圧倒されっぱなしだった。
あの豪邸で生まれ育ち、六男であっても“津島の人間”という目で周りから見られ続けていれば、自身の生まれについては嫌でも考えてしまう。
そして自身の性格的に津島の人間にはなれないということも、早々に自覚していたはずだ。
暮らしぶりは不自由なくても、内には居心地の悪さや苦しみを抱えていたであろう。
生家を離れてやんちゃをし、除籍されてからは津島の家と交わることは無かったようだが、実母のことをきっかけに少しずつ関係性が修復されていったと。
そうした中で、故郷の地で、家族と静かに暮らしたこの離れで、多くの作品を執筆するに至ったのか。
離れではずっと感慨深い気持ちに浸っていた。
まだ触れたことがない太宰の作品もあるので、これから楽しみに読んでいきたい。
本当に、本当に来て良かった。
思い出に残る旅になった。
さて、ここまで私が実際にどのくらいの時間をかけて見学してきたかというと、斜陽館で2時間半、離れで1時間弱。
気になるもの、心惹かれるものの前でいちいち立ち止まっていると余裕でこれくらいかかる。おかげで大満足。これでも駆け足で回ってきたほうだ。
こうして自分の好き勝手やれるから、わたしは一人旅を愛している。
さすがに歩き回って感動してお腹が空いたので、斜陽館まで戻り、目の前にあった金木観光物産館「産直メロス」へ。
まず中華そばをものの数分で平らげた。(写真はない。察してほしい、食い気を前に人間は無力。)
私は旅先で、産直市場や道の駅の市場を覗くのが大の楽しみである。
この産直メロスも楽しかった……たくさん買い物をした。
津軽こぎん刺しの栞を衝動的に買った。太宰の本に挟んでニコニコしたい。
クイーンニーナ、税込450円、本当に美味しかった。もっとお金をお支払いしたい。
レジに並んでいる時、後ろに立っていた他のお客さんが誰かと電話していたようで、その声が私の耳にも入ってきたのだが、津軽弁で何を喋っているか本当にわからなかった。そういえばふと、以前テレビで、金木は難解な津軽弁の中でも最も方言がきつい聖地と紹介されていたことを思い出した。
最後に、太宰も幼少期よく訪れていたという雲祥寺へ。作品にも登場している。
そろそろ青森市内へ向かわないといけない時間だ。
金木、良すぎました。
金木から望む岩木山。はぁ美しい。ここから岩木山を前に南下する道がとても良かった。
『津軽』で太宰が岩木山に言及している部分で、特に好きな表現がある。
太宰の、岩木山への愛が伝わってくる。
全編を通して、ふるさと津軽への愛とユーモアに溢れた作品。
津軽のことを誇らしげに語る太宰の姿を見ていると、こちらまで嬉しくなってしまうのである。
しかも、読者との距離感の保ち方が絶妙に上手い太宰なので、私ひとりだけに嬉々として語りかけてくれているような、そんな気持ちにさせられてしまうのだ。罪な男。
『津軽』で印象的な場面はたくさんあるが、最終章、太宰の育ての親である「たけ」との再会シーンは読んでいて涙を堪えきれなかった。太宰の作品を読んで、こんなあたたかな嬉しさに包まれることがあるなんて思わなかった。
感動の再会は嬉しさもありながら、太宰にとってこうした平和的なあたたかさは一瞬のひとときで、また罪悪感が顔を出し、苦しみとともに歩いてゆくしかなかったこともまた、切ない。
やはりこの再会の場面であった小泊には行かなければならない。竜飛岬、弘前もだ。芦野公園と蟹田と、五能線で西海岸沿いを巡るのもいい。まだまだ行きたいところがたくさんある。
あぁ、まいったな、私の中で太宰の存在がどんどん大きくなってきている。
そんな旅だった。
こうしてたまに旅に出て、その土地の風土、そこに暮らす人々に出会い、愛しい人や“もの”、大切な思い出に手を支えてもらいながら、この斜陽の国で今日も修羅をゆくしかないのだ。
『津軽』の最後に登場する、極めつけのこの一節を借りて締め括りたいと思う。
ここまで長らくお読みいただいた方ありがとうございました。秋の夜長のお供となっていましたら幸いです。