ミヒャエル・エンデ『鏡のなかの鏡―迷宮』
子供のころ読んだ物語のことを、「なにを言っているのか、かんぺきに理解した」と思いずっとずっと大好きな物語として心に抱えたまま過ごし、おとなになって読み返したときにぜんぜんそんな話ではなかった、ということが起こったとき、果たしてあなたは「子供のころに間違えたのだ、かってな空想や思い込みをしたのだ、じっさいにはそんな話ではなかったのだ」と思うほうだろうか。
私はそうではなかった。
「おとなになって天啓を失ってしまったのだ」と思った。
それはなんとも悲しく、世界と自分との繋がりに対してひどく自信を失うようなできごとの記憶として残っていて、そのせいか私は本当に心震えたもの、真に「これは私の物語だ」と感じたもの、まこと美しく感じたものを、二度と繰り返して見ようと思いたがらないという悪癖を抱えることになってしまった。
その物語とはミヒャエル・エンデ『鏡のなかの鏡―迷宮』である。連作短編集である本作は、エンデの父が製作した版画に添えられた30の物語が響きあい奇妙な螺旋を描いてひとつの円環を成し、読者をまさに「迷宮」へと誘う(なお、「迷宮」とは古代の原義的において、あちこち分岐して袋小路があってゴールまでたどり着けないというような「迷路」のことではなく、まさに螺旋のことをこそ指したとされる。その「迷い」とはむしろ人間の内にこそあるのだ)。
中のとある一編は、間違いなく死後の世界にして誕生前の世界、人間の宿業と帰結、魂の判決について語った物語であるのだが、どれがそうであるかは述べない。私の得た天啓は一瞬の電流であって今はもうそのような確かに照らされたものはない。
ところで私は最近ようやくこの本をもう一度読んでみたいと思うようになった。初読のときの私も、再読のときの私も今はもう遠い過去だ。そう思い始めたことを、「歳をとることとは楽になることよ」というような達観ぶりしたなにかで語りたくはないので、これは単に、ただ、それだけのことである。
できればドイツ語の原文で読んでみたいなと思っている。失われた天啓はおそらく戻らず砂地の発掘作業のような読書になるかもしれないが、それはそれとして、語学学習の意欲が高まるとよい。