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映画『鏡』 (ネタバレ感想文 )タルコフスキーの自画像。
私がこの映画に出会ったのは30数年前。
当時大学生だった私はタルコフスキーに熱狂し、この映画もテレビ録画のビデオ(VHS!)で何度も観たものです。
何度も観ましたよ。だって途中で寝ちゃうんだもん。
タルコフスキーは『サクリファイス』(86年)完成直後に亡くなったので、新作=遺作公開と共に特集上映や関連本の出版など、1987年の日本(の一部)はちょっとしたタルコフスキーブームでした。
その時が私のタルコフスキー初体験。タルコフスキーは「体験」と呼ぶのが相応しい。私も眠い眠い言いながら、その映像美と難解さの虜になった記憶があります。
タルコフスキー、好きッ!いや駄洒落じゃなくて、いや駄洒落なんだけど、こういうタイトルの本が実際にあったんだから。持ってるし。
黒澤明や手塚治虫のタルコフスキー評が読める貴重本なんですよ。押井守や石井聰亙はじめ多くの人が異口同音に「眠い眠い」と書いているんですけどね。
そういや今時の人は、ネトフリやアマプラを1.5倍とか2倍速で見るんですってね。タルコフスキー、倍速で見ても遅いから。倍速で見ても寝るから。
(ここから観た人にしか分からないことを書きますが、「あのシーンの意味は?」的な細かな解釈ではなく、総括的な感想文です)
映画冒頭、吃音の子が話し始めます。
これは、タルコフスキーの「今まで言葉に出来なかったことを語ります」宣言なのです。つまり、タルコフスキーの自分語り。映像で描く「自画像」。
そう、「自画像」なんですよ。
ダ・ヴィンチの画集が出てきます。
私は長年その意味を図りかねていたのですが、ポイントはダ・ヴィンチではなく、いくつか映し出される「肖像画」の方にある気がします。
これは、タルコフスキーが映像で自分の肖像を描こうとした映画なのかもしれません。
基本的な登場人物は「私、母、妻」しかいません。超シンプル。
でも「私」は、「今の私」と「子供の頃(それも少年と幼児の2パターン)」に分かれます。
そして「母」は、「老婆」と「妻の顔」の2パターン出てきます。
そして同じ顔をした「妻」と「母」。
これが交錯するから分かり難い。
しかし、「今の私」だけは声のみで、姿を見せないのです。←これ重要。
タイトルが『鏡』なんだから、鏡くらいに映ってもよさそうなもんですが、それすらしません。
よく考えてみたら、「私」の姿は「私」には見えないのです。
あなただってそうでしょ?
仮に自分を鏡に映したところで、それは左右逆の似て非なる物体に過ぎません。
いや、作家にとって、そんな表層的な似顔絵はどうでもいいのです。
彼らが描きたい肖像(自画像)は、人としての内面なのです。
「今の私」を形成する、人・物・出来事・歴史等々のあらゆる「記憶」なのです。父の詩も、唇の荒れた女の子も、母が粛清に怯えた恐怖政治さえも、アンドレイ・タルコフスキーを形成する要素なのです。
それはドストエフスキー的総合小説(<村上春樹命名)にも似た壮大さ。
その壮大な記憶を-単なるノスタルジックな思い出話ではなく-客観視して描くことが、彼にとっての肖像画(=この映画の狙い)だったに違いありません。
私は長年この映画を「詩」だと思っていたのですが、「絵画」だったという寝言でした。ムニャムニャ。
余談
ついでに言うなら「風」の映画。
タルコフスキーは「火」「水」あるいは「浮遊」が常に語られますが、この映画の「風」は圧巻。世界で唯一「風」を撮った作品と呼んでもいい気がしています。
(2021.10.31 Morc阿佐ヶ谷にて再鑑賞 ★★★★★)
監督:アンドレイ・タルコフスキー/1975年 ソ連