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映画『さらば、わが愛/覇王別姫』 (ネタバレ感想文 )私はこれほど壮絶で痛切で美しい映画を他に知らない。

私の100点満点映画の一つ。
なんでも、放映権が切れるとかで日本最終上映だってんで映画館に足を運んだんですが、とにかく連日満席でチケットが取れない。
3日先までネットで席を取れるんだけど、午前0時の情報更新とともに瞬殺。週末の上映は5分足らずで完売という事態。一体何が起こってるんだろう?
というわけで、睡眠時間を削って(?)午前0時の更新と共に平日の回をなんとか予約して劇場鑑賞。

月曜19時からの上映。この映画長いからね。なにせ50年の一大叙事詩だから。終わったら22時ですよ。月曜から夜ふかし。なのにガチで満席。
意外だったのは、往年のファンに混じって若い中国人が多かったこと。肌感覚では全体の4分の1くらいが若い中国人。いやまあ、中国人なのか台湾人なのか香港人なのか分かりませんが、この「中国近代史」を彼らはどういう目で見たんだろう?

先日、チャン・イーモウの映画でも書いたけど、一定の年齢層や知識人には「文化大革命」の反省・批判がある。でも今時の中国の若者はどう思ってるんでしょうね?

文革「四人組」って、私なんかが子供の頃、普通にテレビで言われてましたからね。毛沢東だって生きてたし、それほど歴史上の人物でもないんですよ。
いしかわじゅんの『うえぽん』っていうスパイ漫画でも
「四人組は知っているな?」
「あの歌って踊れて司会もできるという……?」
「フォーリーブスのことではない」
っていうネタがあったもん。よく覚えてるな、俺。

すいません、話が横道に逸れました。というか本題に入ってませんでした。
ちなみに35mmフィルム上映でした。こんな状態のいいフィルム上映は久しぶりだった。

私がこの映画を観るのは、たぶん4度目で、映画館で観るのは2003年7月に二日続けてキネカ大森まで遠征して鑑賞して以来。あの時、レスリー・チャン追悼上映だったのよ。もうすぐ20年か。年を取るわけだねぇ。

本当にこの映画の構造は見事で、
50年に渡る「中国近代史」と「個人の愛憎史」が折り重なり、
物語の進行と劇中の京劇「覇王別姫」が折り重なる。
レスリー・チャン演じる程蝶衣は本当に「四面楚歌」になっていくからね。
こういう映画が観たいんですよ。
しかもいま観ると、レスリー・チャンが自ら命を絶ったことを知っているから、本来の意図以上にオーバーラップしてしまう。

「いま観ると」感で言うと、LGBTQなんて言葉はない時代でした。劇中50年はもちろん、この映画製作時点でも。
それでもこの映画は、同性に対する「純愛」を真摯に綴った映画だと思うのです。
血の契りで始まり、変な爺さんに弄ばれたあげく、捨て子を抱き上げるに至っては、まさに小豆が「女」になっていく過程なのです。

そうして「女」になった彼が、阿片に溺れて母親へ手紙を書いたというシーンがあります。何故この歳になって阿片に溺れながら、あれほど強烈に我が身を捨てた母を想うのか?
それは「母への慕情」ではなく、「捨てられる」ことへの恐怖だと思うのです。娼婦だった母に捨てられ、娼婦に盗られて愛する男に捨てられる。だからますます意固地になる。
コン・リーがまたいいんだ。

もう一つ「いま観ると」感の話。
若い子が「こんな修行やってられっかー!」とぶち投げるシーンがあります。お前、こんなちっちゃい頃は「師匠に7日間こうしていろと言われました」言うとったじゃないか。
「時代が変わったことをあんたは分かってない!」と彼は言うんですが、今のセクハラ・パワハラなんかがこれに相当すると思うんですよ。
自分に置き換えると、20年前に観た時は「時代が変わったことをあんたは分かってない!」と言う側の年齢だったわけです。でも、いまは言われる側。
いやぁ、年齢としとったなあ。そりゃかつての男色家エロ爺も乞食同然の煙草売りになるわ。

この一大叙事詩を恋愛物語と見た場合に、「蝶衣が本当に愛したのは京劇なのだ」という見方もあろうかと思います。
でも本当は、京劇を愛したのでもなければ芸に身を捧げたわけでもないような気がします。
京劇が彼の全てであり、彼自身が京劇だった。
彼のアイデンティティーそのものが芸であり、虞姫であった。
そんな風に思うのです。

1993年 中国=香港=台湾

(2022.06.20 にて鑑賞 ★★★★★)