無意識のマイクロアグレッションは恐ろしいのです。
先日から「ソーシャルジャスティス」という本を読んでいるのだが、この本からはこのブログに書ききれないくらいのたくさんの学びと気づきがある。
現代日本においてはあまり馴染みがないが、より良い社会を築いていくために我々が認識して理解すべき、様々な概念を表す言葉が出てくる。
そのうちの1つが、「マイクロアグレッション」という言葉だ。
マイクロアグレッションとは、この本の中では以下のように紹介されている。
本書の中にはその事例として、女性の小児精神科医である著者自身が受けたマイクロアグレッションが紹介されていた。
著者が科学的根拠に基づいて妊婦へのワクチン接種が問題ないことを理解して、実際にコロナワクチンを接種し、それを対外的に、特に日本に積極的に発信していることに対して、日本のとある女性から、「勝ち組女性だと思っていたけど、その発信から真剣さが伝わってきた」という感想のコメントがあったらしいのだ。
このコメントは、一見褒め言葉のようでいて、実はマイクロアグレッションである。
勝ち組女性とは一体どういう人たちのことを指しているのだろうか?仮に著者が勝ち組女性であったとしても、そのこととコロナワクチンに関する科学的情報の真偽は無関係なのではないか?
そういうモヤモヤとした気持ちや疑問を発言された側に抱かせる点においてマイクロアグレッションは罪深いのであるが、これの問題は、往々にして発言した側が相手を傷つけていることに気付いていないところにある。
自分も我が身を振り返って、無意識的に周りの人を傷つけてしまっていたかもしれないと思うと、それは恐ろしいことだと思う。
マイクロアグレッションの例になるかどうかわからないが、自分の当時の無意識の感覚が恐ろしいと感じて印象に残っている自分の発言がある。
それは、毎年夏に地域の子どもたちを連れて行くキャンプに関する、子らをキャンプに参加させようと思っている親御さんたちに向けた説明会でのことだった。
説明会の場では各青年からの自己紹介タイムがあって、私にも自己紹介の機会があった。当時高校3年生だった私は、大学受験を控えた中でも、キャンプづくりの中心として忙しいスケジュールになるとわかっている実行委員の役割を果たすため、比較的前向きに参加を決めていた。だから、「受験もあって忙しいけど、キャンプづくりにも力を発揮するんだ」という、半ば自慢気になるような心持ちもあって、そのときの自己紹介において、「一応受験生です」という言葉が口をついて出た。
ひとしきり自己紹介を終えて着席し、説明会が進んでいる中で私は自分の発言を振り返ってハッとした。
「『一応受験生です』という言葉って、『大学受験するのが当たり前』みたいな印象を聞き手に与えないだろうか?」
仲間の青年たちの中には、高校を卒業した後に大学に行かずに就職したり、専門学校に行ったりする人たちもいるし、親御さんたちの中には、子どもが大学に行きたかったけど行けなかったとか、行かせたかったけど行かせられなかったという状況にいる人たちもいるかもしれない。
先ほどの言葉は、そういう人たちを傷つける言葉になっていないだろうか?自分としてはほとんど無意識に発された言葉だったからこそ、私はそのことがなぜだが恐ろしくなってしまって、その日の夜は珍しくあまり眠れなかったことを覚えている。
あのとき私がしてしまったことこそ、「何気ない言動に現れる偏見や差別に基づく見下しや侮辱」に対応するマイクロアグレッションの一種だったのかもしれないと思うと、こうした偏見や差別が自分自身とも全く無縁ではないと思えてきて、なおのこと自分の発言・言動には気を付けていきたい、と思った。