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「子どもが主役の学び」ってほんとは何?

『「子どもが主役」の学び』

という「ことば」。
この「ことば」、魅力的。
これさえ達成できれば、

なんだか「よい教育」「よい学び」ができたなー!

と思えてしまう。


でも、「主体的な学び」って、本当は何なのでしょうか?
この言葉について、少し立ち止まって、見つめ直してみたいと思います。

"子どもが「主役」の学び"の対義語。



トークセッションの中で、
『「子どもが主役」の学びの対義語とは何か?
ということが話題になっていた。

安直に考えるのであれば、

「子ども」↔「おとな」

つまり、
『”おとな”が「主役」の学び』
という言葉に置き換えられそうある。しかし、そう考えると、
『「おとなが主役な学び」はいけないことなのか?』
という疑問が生まれてくる。
そして、「”学び”は、子どもの専売特許ではないだろう。」
という声も聞こえてきそうである。


"〇〇が「主役」の学び"

であれば、どのような言葉が対義語としてふさわしいの
だろうか?
例えば、次はどうだろうか?

"政治が「主役」の学び"

"経済「主役」の学び"

 私は、これらの言葉が、対義語にあたるのではないかと考える。
 特に「学校教育」は、”政治”や”経済”を増進し、利用する手段として利用されることが多くあった。歴史を振り返ると、第二次世界大戦中の日本の軍国主義の時期には、その傾向が顕著であり、それが悲惨な歴史を築いたことは明白である。

このような、言葉と照らし合わせてみると、たしかに
「子どもが主役の学び」を実現することは、重要なことのように見えてくる。

しかし、本当にそうなのだろうか?
なぜ、こんな魅力を有しているのだろうか?


「児童中心主義」 VS 「系統主義」論争の焼き直し



子どもが主役なのか、教科が主役なのか。
そう考えると、この
「子どもが主役の学び」という言葉は、「児童中心主義」や「経験主義」といった、J.デューイから影響を受けた教育家が行った「新教育運動」の流れから派生しているのではないでしょうか?

ここで、日本の学習指導要領の歴史などを紐解き、「ゆとり教育」というフレーズが流行した時期にこの概念が生まれたのか検証する必要があるのだとは思いますが、それは他の方に託したいと思います。

しかし、この言葉を冷静に見つめてみると、
「旧教育」対「新教育」という二項対立の議論
の焼き直しであり、言葉を変えただけで中身は似たような議論の範疇に収まるのではないか。

「児童中心主義、経験主義」 VS 「系統主義」

どちらか一方が正しくて、反対は間違っている。
なんて信じてしまいがち

けれど、実は、よい「教育」って実は、その中間にあったら、バランスの中にあったり、もしかすると、極端な点にあったりするかもしれない。

つまり、どれもよい教育である可能性を秘めているのかもしれない。

もしかすると、ほかの方法の方がよかったのかもしれない。

という不確定さ

その中には、不安もあれば、「希望」もある。

まだまだよくなる伸びしろ。

けれど、これでよかったと断定できない不安。



以下から書きかけ部分となり、「有料」としています。
いずれ、無料で公開する部分になりますので、お得ではありません。むしろ損します。
「書きかけでもみたい」というマニアックな方向けです。

最終的に、"子どもが「主役」の学び"が本当に良い「学び」なのか、そしてどのように実現することができるのかについての考察を深めたいと考えています。


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